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ウィーンの大人になれない二人のピーター・パン

【7】「第三の男」の原作を読んでみた

中川文人 作家

 『第三の男』のテーマ音楽「ハリー・ライムのテーマ」は、数ある映画音楽の中でも最もよく知られたものの一つだろう。あの陽気で軽快なメロディ、「レ・レ#・ミ・レ#・ミ・レ#・ミ」の旋律は、ビールのテレビCMや東京や大阪の駅で発車メロディに使われているくらいだから、ハリー・ライムのテーマは私たちの生活の中に溶け込んでいると言ってもいいかもしれない。

映画よりも有名になったテーマ曲

 動画配信サービスのU-NEXTは『第三の男』の紹介文に「印象的なテーマ曲は、映画を知らずとも聴いたことがあるのでは。」と書いている。映画よりもテーマ曲の方がよく知られているわけだが、それも無理のない話なのかもしれない。

 『第三の男』は1949年製作のモノクロ映画である。よほどの映画好きでないかぎり、こんな古い映画は観ないのだろう。

 が、この名画を「古い」というだけで観ないのはもったいないと思うので、「古い映画だけど、これは観ておいたほうがいいですよ」とすすめるようにしているのだが、「テーマ曲は知っている」という人にすすめると困ったことが起きる。

 「この映画は第二次世界大戦直後の、半ば廃墟と化したウィーンを舞台にしたもので、ハリー・ライムという闇商人が主人公。この男は粗悪なペニシリンを闇で売りさばき、多くの子供を死に追いやった極悪人で、保身のためには仲間も殺すし、恋人も平気で警察に売り渡す冷酷な男。しかし、最後は運が尽きたのか、子供の頃からの親友に裏切られ、地下の下水道で撃ち殺される」

 私は『第三の男』をこんな風に説明するのだが、あの陽気で軽快なメロディが頭の中にある人は、この説明に違和感を持つようだ。

 たしかに、「レ・レ#・ミ・レ#・ミ・レ#・ミ」は心弾むメロディである。口ずさむとウキウキした気分になる。何の罪もない子供たちを死に追いやったり、恋人を警察に売り渡したりする男のテーマ曲とは思えない。映画の内容と音楽の醸し出すイメージが、これほど離れているケースも珍しい。

 そこで、なぜこの陽気な音楽が極悪人のテーマ曲になったのか、少し調べてみた。 

イラスト・斉田直世

居酒屋で出会った二人

 『第三の男』の音楽を作り、演奏しているのはウィーンのチター奏者、アントン・カラスである。

アントン・カラス=1962年3月3日
 チターはドイツ、オーストリアなどのドイツ語圏に伝わる民族楽器である。形は日本の琴に似ているが、その音色はどこか哀愁を帯びている。アントン・カラスはそんなチターを持ってホイリゲ(居酒屋のような飲み屋)に現れるチター弾きで、自分のレパートリーを披露するだけでなく、客のリクエストにもこたえ、客の歌の伴奏もするというから、昭和の飲み屋街にいたギターの流しのような存在だったのだろう。

 アントン・カラスの栄光と挫折を描いた『滅びのチター師 「第三の男」とアントン・カラス』(軍司貞則、文春文庫)という本によると、キャロル・リードとアントン・カラスの出会いは偶然だったようだ。

 1948年、『第三の男』の撮影準備でウィーンに来ていたキャロル・リードは、ある日、地元のプロデューサーに招かれ、ホイリゲを訪れる。地元の俳優を紹介してもらうためだったが、リードの目は俳優ではなく、チターを弾くカラスに釘付けになる。

 リードはカラスとの出会いを、のちにこう語っている。

 私は瞬間的に思った。これから撮る「第三の男」の映画音楽にこの楽器と男を
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