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「スッキリ」にアイヌを「あ、犬!」と言わせたのは日本政府である

アイヌへの「ジェノサイド」を謝罪し先住権を認めるべきだ

杉田聡 帯広畜産大学名誉教授(哲学・思想史)

 日本テレビ系の情報番組「スッキリ」で、「あ、犬」などという、アイヌ(*)を絶望におとしいれる言葉が公然と語られた。これが公共の電波にのって日本中に流された事実に、私は跳ね上がるほど驚いている。
(*) 本稿では、「人」、しかも「誇りある人」という、「アイヌ」がもつ語義をふまえ、単に「アイヌ」と記す。

無関心・差別意識

 「アイヌ」は、アイヌが自己確認のために用いる言葉である。だがそれは、「明治」以降ずっと、あまりに強い負の意味を背負わされてきた。おまけにそれを「犬」と結びつける悪意は、ヘイトスピーチとしてどれだけアイヌを苦しめたかしれない(貝澤正『アイヌ わが人生』岩波書店、93頁;北海道新聞社編『こころ揺らす――自らのアイヌと出会い、生きていく』同社刊、116頁)。

関東ウタリ会が開いた、アイヌ民族の教科書での扱いについて話し合うシンポジウム 1993年アイヌの歴史や差別問題を学校教育でどう伝えるかについては、かねて議論されてきた=1993年、関東ウタリ会が開いたシンポジウム
 言うまでもなく、日本語では(も)、「犬」はさげすみの言葉として使われている。「犬死に」はその典型だが、「犬の遠吠え」、「犬も食わぬ」などもそうだし、犬を意味する「狗」(く)を含む「走狗」、「羊頭狗肉」も、さげすみの含みをもつ。また俗に警察官を「権力のイヌ」と言う場合もそうである。

 ふつうに日本語を母語とする話者ならその程度の意味は直ちに感じとるはずだが、今回の当事者や放送スタッフがそれを感じなかったのだとすれば、それはアイヌに対する無関心の帰結であろう。

 無関心はふつう心理的・物理的な距離から生まれる。かつて在日トルコ人が、「トルコ風呂」という名前を変えてと訴えたことがあるが、心理的・物理的な距離に甘んじた不明を、私たちは一度かえりみる必要がある。近年では「スペイン風邪」、「中東呼吸器症候群」(=MERS)、「中国ウイルス」(トランプ前米大統領)などという言葉も、同じ問題をひきおこしている。

 差別語としても機能するこれらの背景には、他民族に対する差別意識もおそらく伏在する。「中国ウイルス」の場合は、伏在どころか顕在していた。

 では、「あ、犬」はもちろん「アイヌ」にさえこめられた差別意識は、一体どこから来たのか。それは、語り手個人のアイヌについての無知に由来する部分もあろうが、それを誘発する何かが日本社会にはある。

“被告席”にすわるべき日本政府・北海道庁

 今回、メディアおよび世論は機敏に反応し、日本テレビは直ちに謝罪した。ひとまずこの事実は、当然のこととはいえ良かったと思う。また例えば北海道アイヌ協会が、局としての認識、原因究明や再発防止を日テレに機敏に申し入れた事実も同様である。

 ただ私は、“被告席”にすわるべき当事者が欠けていると思う。そこに、日本政府・北海道庁を座らせるべきである。ヘイトスピーチを行うのは個人だが、それを許す土壌は、政府・道庁によって歴史的に作られてきた。

 元々、日本のアイヌ政策は、とうてい国際的な水準に沿うものではなかった。国連は2007年、「先住民族の権利に関する国連宣言」を採択した。その際日本政府はこれに賛成したが、アイヌに対する先住権の保障を、いまだにかたくなに拒んでいる。

1992年3月27日、東京都千代田区
北海道と首都圏に住むアイヌが北海道旧土人保護法撤廃と新法制定を訴えたデモ=1992年3月27日、東京都千代田区

 なるほど2019年に成立したアイヌ新法では、アイヌを「先住民族」と明記した。以前の「旧土人保護法」はもちろん、1997年に施行された「アイヌ文化振興法」を思えば、これは画期的だった。だがアイヌ新法は、先住権(生活様式等をみずから選ぶ自決権、同意なく没収された土地・資源の返還要求権・賠償請求権等)の保障とは無縁である。

 これを保障するためには、アイヌに対して日本政府が行ってきた「同化政策」についての反省と謝罪がなければならないが、政府はそれに背を向ける(杉田「「アイヌ新法」はアイヌの先住権を葬る欠陥法」19年4月17日)。道庁もそうである。2018年、「北海道150年」を祝う大規模な式典・関連事業を行いながら、知事はついに同化政策について謝罪しなかった(杉田「むしろ「シャクシャイン独立戦争350年」事業を」18年8月20日)。

日本政府のジェノサイド

 日本政府・道庁(当初は開拓使)はこの150年、アイヌに対して何を行ったのか。

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