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アニメーター大塚康生さんを送る~多彩な才能で業界を牽引した巨人

叶精二 映像研究家、亜細亜大学・大正大学・女子美術大学・東京造形大学・東京工学院講師

職人であり研究者、そして教育者

 3月15日午前7時30分、日本を代表するアニメーター大塚康生さんが死去された。享年89歳。その功績は余りに深く広い。

 大塚さんは、日本のアニメーションの礎を築いた先駆者であり、長年にわたって「速く上手に大量に」を実践したアニメーターの鏡鑑であり、技術を開発・探求し続けた研究者であり、多数の優れた才能を見抜き育てた指導者でもあった。大塚さんが多方面に刻んだ膨大な足跡の上に、現在の日本のアニメーションが成立していることは疑いがない。

 けれども、その偉大な業績にもかかわらず、大塚さんには相手に緊張感を強いる高圧的態度が全く見られなかった。誰もが親しみを込めて「大塚さん」と呼ぶことが許されていた。親子どころか孫の世代からも「大塚さん」と呼ばれていた。だから、筆者は本稿においても「大塚さん」と記して送りたい。

ご自宅で作業中の大塚康生さん。 撮影/筆者(1996年)ご自宅で作業中の大塚康生さん=1996年、撮影・筆者

高畑勲・宮崎駿の恩師であり同志

 大塚さんは、幼少期から観察眼と画力に優れ、機関車や進駐軍ジープの細密画を描いていた。漫画家志望だったが、いったん厚生省麻薬取締官事務所に勤務した後、一念発起して東映動画(現東映アニメーション)創設に参加。日本初のカラー長編アニメーション『白蛇伝』(1958年)で動画(後半は原画も)を担当した。以降年1本のペースで制作された長編で、誰もがやりたがらない怪物や面倒な自然現象などの作画を率先して引き受けた。『アラビアンナイト シンドバッドの冒険』(1962年)の洪水シーンの原画では波飛沫を300粒以上描き込んで動画担当者からクレームが来たという。

 やがてダイナミックなアクションシーンや憎めない悪役などが「得意技」と認められ、数多く任されるようになる。後輩の指導や労働組合創設にも尽力し、早くから若手のリーダーとなっていた。

 1965年、初の長編作画監督に抜擢された大塚さんは、新人だった高畑勲氏を演出に指名。拒否する上司を説得して認めさせ、『太陽の王子 ホルスの大冒険』(1968年)をスタートさせた。準備班には「子供も大人も楽しめる長編の再興」を掲げる組合の先鋭的メンバーが集い、アイデアを出し合う民主的制作体制が敷かれた。

 新人動画だった宮崎駿氏の才能は突出しており、舞台・キャラクター・小道具など膨大なアイデアを提供して一気にメインスタッフ(場面設計・原画)に昇格。ここを起点に、大人の鑑賞に耐える物語、複雑な台詞と心理描写、ダイナミックな戦闘シーンなどを内包した「日本のアニメーションの新たな潮流」が生まれたと言ってよい。

 大塚・高畑・宮崎の3人は、その後スタジオを変えて『ルパン三世(第1シリーズ、途中より)』(1971年)、『パンダコパンダ』(1972年)、『パンダコパンダ 雨ふりサーカス』(1973年)でも揃ってメインスタッフを務めた。以降、大塚作画監督・宮崎監督コンビで『未来少年コナン』(1978年)、『ルパン三世 カリオストロの城』(1979年)、大塚作画監督(小田部羊一と共同)・高畑監督コンビで『じゃりン子チエ』(1981年)が制作されている。その流れは後のスタジオジブリへと続いていく。

大塚康生さんの原画展がひらかれた。「ルパン3世」のほか、戦中戦後の混乱期の山口県内の田園地帯や山口県庁周辺を描いた作品も展示された=山口市のC・S赤れんがで 2002年10月大塚康生さんの原画展で=2002年10月、山口市のC・S赤れんが
 青年時代の高畑勲・宮崎駿両氏にとって、大塚さんは尊敬する先輩であると同時に、苦楽を共にした同志でもあった。かつて、高畑氏はこう記している。
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