高畑勲・宮崎駿の恩師であり同志
大塚さんは、幼少期から観察眼と画力に優れ、機関車や進駐軍ジープの細密画を描いていた。漫画家志望だったが、いったん厚生省麻薬取締官事務所に勤務した後、一念発起して東映動画(現東映アニメーション)創設に参加。日本初のカラー長編アニメーション『白蛇伝』(1958年)で動画(後半は原画も)を担当した。以降年1本のペースで制作された長編で、誰もがやりたがらない怪物や面倒な自然現象などの作画を率先して引き受けた。『アラビアンナイト シンドバッドの冒険』(1962年)の洪水シーンの原画では波飛沫を300粒以上描き込んで動画担当者からクレームが来たという。
やがてダイナミックなアクションシーンや憎めない悪役などが「得意技」と認められ、数多く任されるようになる。後輩の指導や労働組合創設にも尽力し、早くから若手のリーダーとなっていた。
1965年、初の長編作画監督に抜擢された大塚さんは、新人だった高畑勲氏を演出に指名。拒否する上司を説得して認めさせ、『太陽の王子 ホルスの大冒険』(1968年)をスタートさせた。準備班には「子供も大人も楽しめる長編の再興」を掲げる組合の先鋭的メンバーが集い、アイデアを出し合う民主的制作体制が敷かれた。
新人動画だった宮崎駿氏の才能は突出しており、舞台・キャラクター・小道具など膨大なアイデアを提供して一気にメインスタッフ(場面設計・原画)に昇格。ここを起点に、大人の鑑賞に耐える物語、複雑な台詞と心理描写、ダイナミックな戦闘シーンなどを内包した「日本のアニメーションの新たな潮流」が生まれたと言ってよい。
大塚・高畑・宮崎の3人は、その後スタジオを変えて『ルパン三世(第1シリーズ、途中より)』(1971年)、『パンダコパンダ』(1972年)、『パンダコパンダ 雨ふりサーカス』(1973年)でも揃ってメインスタッフを務めた。以降、大塚作画監督・宮崎監督コンビで『未来少年コナン』(1978年)、『ルパン三世 カリオストロの城』(1979年)、大塚作画監督(小田部羊一と共同)・高畑監督コンビで『じゃりン子チエ』(1981年)が制作されている。その流れは後のスタジオジブリへと続いていく。

大塚康生さんの原画展で=2002年10月、山口市のC・S赤れんが
青年時代の高畑勲・宮崎駿両氏にとって、大塚さんは尊敬する先輩であると同時に、苦楽を共にした同志でもあった。かつて、高畑氏はこう記している。
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