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美術家・篠田桃紅が遺した忘れ難い言葉①~最後の本『これでおしまい』を上梓

107歳の天寿をまっとうした世界的美術家は誰と出会い何を語ったのか……

佐藤美和子 編集者・ライター

 世界的な美術家・篠田桃紅(しのだ・とうこう)さんが、107年余りの天寿をまっとうされました。桃の蕾が綻(ほころ)びはじめた3月1日のことでした。

 最後となった本『これでおしまい』(講談社)は、今から2年前の春に着手され、私が構成を担当しました。桃紅さんの数多(あまた)ある言葉から200超を厳選。その言葉と、交差する思い出から成っています。

 桃紅さんの人生の転機となったのは、1956年〜60年代でした。その時代の彼女の思い出を通して、篠田桃紅さんが遺した言葉をめぐるもろもろを、3回にわたって綴っていきたいと思います。

アメリカのインテリの心を捉えた一首の歌

2ケ月滞在の予定が1年8ケ月の長期滞在となり。全米各地で個展を開いた篠田桃紅さん=1958年6月

 「『ものを思へば沢の蛍も我が身より憧れいづる魂とかぞ見る』(和泉式部)──初めてニューヨークへ行った時、コロンビア大学の教授に『こんなポエトリー(詩歌)は世界中、絶対ほかにありません。こんな歌を歌う人が日本の女性にいたのかと思うと、私は日本の文学に引き寄せられて離れることができない』とそう言われたのよ。一首の歌が、アメリカのインテリの人の心を捉えているのを私は知って、やはり文学とか芸術とかいうものは、文化や人種の違いを超えて人の心を動かす力があるのだなあと思いましたね。千年以上前に、一人の女性がつくった歌ですよ。和泉式部は、沢の蛍が飛んでいるのを見て、自分の魂が体から抜け出て、彷徨っているように感じたのでしょう。彼女の心が語り継がれ、感動する人がいるから、どんなに歳月が経とうとも残っている。芸術の力というものはすごい。私は『よく書きますよ。私の大好きな歌ですから』と言ったのを憶えています」

 篠田桃紅さんがアメリカに渡ったのは1956年の秋のことです。敗戦から10数年、日本にはまだ十分な外貨がなく、彼女は事前に米ドルを送金してもらったといいます。米国人招待者は、潤沢な経済力を有することを米国当局に証明しなければならない。そんな時代でした。

 桃紅さんが在日米国大使館でビザを受け取った時、大使館員が皆出てきて、拍手で送り出してくれたそうです。渡米前、個展が行われることが決まっていたのはボストンだけでしたが、ニューヨークでの個展が降ってわいたように叶(かな)うと、それをきっかけとして、シカゴ、ワシントンD.C.とアメリカの各地を巡回、さらにパリ、アムステルダム、オスロ、ボン、エッセンなど、ヨーロッパの美術館や名高いギャラリーからも展示の招待を受けました。

 冒頭のコロンビア大学の教授には、この時のニューヨークでの個展で出会っています。

仕事場で制作中の篠田さん。仕事を始めると食事をするのを忘れることもしばしばだという=1958年6月、東京・大田区田園調布

ベティ・パーソンズ・ギャラリーで個展を開催

 1965年、念願だったベティ・パーソンズ・ギャラリーで個展が開催され、彼女はいよいよ世界的な美術家としての地位を不動のものにします。

『これでおしまい』(篠田 桃紅著、講談社)
 マンハッタンにあるベティ・パーソンズ・ギャラリーの女主人、ベティ・パーソンズ(1900〜82年)は、現代美術史に名を連ねる人物です。戦後の世界のアートシーンは、復興に手間取るヨーロッパからニューヨークに舞台を移し、抽象表現主義が隆盛を極めます。その時代を牽引(けんいん)し、指導的な役割を担った人物だと評されているのが、同女史です。

 彼女は抽象表現主義の旗手、ジャクソン・ポロック、マーク・ロスコ、ロバート・ラウシェンバーグらを世に送り出しました。ギャラリーの女性主人としても、先駆け的な存在のひとりと目されています。

 こうして桃紅さんの発表の場は、国内のみならず、海外へと飛躍的に広がっていきました。そして、絵を介して、海外の王室、日本の皇室から街のお店の主人まで、実に幅広く、さまざまな人たちと出会いました。

 女性にとって、人生の選択肢がまだまだ少なかった戦前に青春期を過ごし、うら若き女性時代に世界大戦を体験。当時、世界的な感染病だった肺結核を患い、幾度か死にも直面した桃紅さんは、「(若い頃は)幅の狭い人生を歩むのだろうと思っていたのが、芸術の持つ範囲の広さというのはあらゆる人に語りかけているものなのね」と生前、振り返っていました。

近代建築の巨匠グロピウス氏との出会い

 前述したように、桃紅さんはアメリカに来て最初にボストンを訪れます。19世紀の赤茶色のレンガの建物が立ち並ぶニューベリーストリートにあるスエゾフ・ギャラリーでの個展が予定されていたからです。

 スエゾフ・ギャラリー(1948〜1968年)はスエゾフ兄弟が始めたギャラリーで、ボストンと近郊ケンブリッジのインテリ層、美術関係者のあいだで人気がありました。ボストン交響楽団の指揮者セルゲイ・クーセヴィツキー(1874〜1951年)や、ミュージカル「ウエスト・サイド・ストーリー」の作曲家としても知られるレナード・バーンスタイン(1918〜1990年)も常連客だったようです。

篠田さんはアメリカ滞在中もずっと着物を着ていた(ボストンのチャールズ川を背景に)
 桃紅さんの展覧会の評判はよく、地元の新聞でも高く批評されました。彼女は依頼を受けて、ケンブリッジにあるハーバード大学で墨による制作の実演をしたり、マサチューセッツ工科大学に赴いて話をしたりしています。『これでおしまい』には、これらの大学の近くにあるチャールズ川を背景に、着物姿の桃紅さんを撮った写真が収録されています。

 このボストンの滞在で、彼女にとって最も印象的な思い出として残ったのは、バウハウスの創立者で近代建築の巨匠、ヴァルター・グロピウス(1883〜1969年)氏の自邸に招かれたことです。氏は桃紅さんの作品を買い求めた一人でした。

 1937年にハーバード大学に招かれて以来、同大で教鞭を執り続けていたグロピウス氏は、ボストン近郊のリンカーン地区に住んでいました。

 「グロピウス先生が自邸に招いてくれた時、ちょうど燃えるような紅葉の季節でしたけど、一望千里、本当に何一つ建物は見えない。平家の家を建てて、一村まるごと紅葉に包まれた中に住んでいました。四方全部、グロピウス先生の土地で、ちょっとした丘の上に家がある。その紅葉の美しかったこと。あまりに美しくて、これが地球上の場所かと思うくらい、夢のようだったわよ。何をされるにしてもスケールが違う。ナチス・ドイツから亡命したでしょ。人間の真の自由というものを持っているかただと思いましたね」

 食事会には、当時、ハーバード大学とマサチューセッツ工科大学に留学していた3人の学生も相客として招かれます。ハーバード大学建築学科大学院にいた鹿島建設の鹿島昭一氏(1930〜2020年)、早稲田大学建築学科教授で建築家の明石信道氏(1901〜1986年)、マサチューセッツ工科大学建築学科大学院を卒業したばかりの李王家の子息、周囲からは「プリンス リー」と呼ばれていたという李玖氏(1931〜2005年)です。彼らはグロピウス氏の話に熱心に耳を傾け、一言一句、筆記していたそうです。

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