羽田弁天橋の死
『きみが死んだあとで』(2021年4月17日公開)は、1967年10月8日に死んだ山﨑博昭という青年を、彼とその時代を知る14人の人間が語ったドキュメンタリー映画である。監督は代島治彦(だいしま・はるひこ)。『三里塚に生きる』(2014)や『三里塚のイカロス』(2017)など、1960~70年代の社会運動の“その後”を題材に映画をつくってきた作家だ。
山﨑は、京都大学の1年生、まだ18歳だった。革命的共産主義者同盟全国委員会(中核派)傘下の学生組織に属する活動家である。当日朝、山﨑を含む一隊は前夜泊まり込んだ法政大学を出て飯田橋駅から国電に乗った。京急・大鳥居駅で降り、反戦青年委員会などが集会を開いていた萩中公園に立ち寄った後、駆け足で羽田空港へ通じる弁天橋へ向かう。
この日、佐藤栄作首相は第二次東南アジア歴訪に旅立つことになっていた。訪問国にはベトナム戦争下、アメリカの傀儡政権だった南ベトナムも含まれていた。米軍の軍事基地や野戦病院の使用を認め、実質的にベトナム戦争に加担する日本政府を糾弾する学生や労働者は、「佐藤首相ベトナム訪問阻止」をスローガンに羽田現地闘争を呼号していたのである。

『きみが死んだあとで』 © きみが死んだあとで製作委員会
学生たちの先頭集団はプラカードを括りつけた角材で機動隊と渡り合ったが、山﨑は素手だった。弁天橋上では防衛ラインについて後方から迫る機動隊に投石していた。
数度機動隊を押し返し、一瞬の静謐が訪れた瞬間、彼は動いた。傍らにいた高校の同級生・黒瀬準によれば、山﨑は「(空港側へ)行きたいね」と何度か言い、ついに防衛ラインを離れて装甲車が立ちはだかる前方へ駆け去ったという。
橋の上の学生たちに、彼の死が伝わったのは、しばらく後のことだった。死因について、警察側は装甲車を奪った学生による轢殺としたが、学生側は機動隊による頭部への攻撃を主張し、真っ向から対立した。
こうして1967年10月8日(通称10・8、“じっぱち”)は、あの頃政治に目覚めた若者にとって忘れがたい日付けになった。

弁天橋上で衝突する警察当局側と学生たち=1967年10月8日
この日が忘れがたいのは、何よりも山﨑の死が刻印されているからだが、加えて学生と機動隊の激突がそれまでの街頭デモの概念をすっかり変えてしまったからでもある。たかだか折れやすい角材が主要な「武器」であったものの、激しい投石と相まって不意を突かれ、防戦に回る機動隊の姿は久々の勝利感をもたらした。
学生たちの主力である「三派全学連」(「三派」とは中核派・社青同解放派・社学同)は、1966年12月に結成され、60年安保闘争以来の学生運動の四分五裂をようやく脱して意気軒昂だった。また彼らの拠点となった大学では、学費値上げや学生会館管理などの闘争テーマが目白押しだった。
さらに世界的なベトナム反戦運動と政治から文化へまたがるカウンターカルチャーのうねりが、若者の激越な行動主義に大義名分を与えていた。権力との可視的な衝突は、その後、佐世保のエンタープライズ寄港阻止闘争や王子野戦病院反対闘争などを通じて学生のみならず、人々に広く訴えかけた。
ささやかでも、確かな意志で組織された力を一点に集中すれば、次の世界への展望は切り拓ける! こうした信憑は、たしかにそこにあった。