「健常児と発達障害児を何でもかんでも混ぜればいい、という考えには反対です」
2021年04月20日
本来ならプロ野球開幕にあわせた企画をやるべき本欄ですが、自分が10年以上もご縁があった著者の新刊に衝撃を受けたので、ぜひ紹介させてください。
私自身も多くの原稿をやり取りしてきましたが、打ち合わせはスムーズだし、いつも締め切りに前倒しで原稿を送ってきて、トラブルも皆無。こちらがミスをやらかしても怒らず迅速対応してくれますし、聖人か何かではないかと心配になるほどでした。
そこに出てきたこの本。タイトル通りの内容で、岡嶋氏がスペクトラム障害と診断された息子さんを療育する話なのですが、途中から変な展開になります。
療育の現場に深くコミットするにつれて、岡嶋氏は自分自身も学校に適応できなかった発達障害児であったと確信。コミュニケーションにおける自らの「生きづらさ」を半生とともに赤裸々に告白していくのです。
原稿を異常に早くアップさせるのは、強迫的な恐怖と慢性的な不眠のため。打ち合わせがスムーズなのは、会話のルールが分からないので、「キャバクラ話法」で相手を持ち上げるテンプレで乗り切ってきたから。編集者がミスをしても怒らないのは、他者が何をやらかしてもまったく関心を持てないから、怒る必要性を感じない、というだけの話……。
そうだったのか……。単に「スゲーいい人だなあ」とぼんやり感謝しているだけだった、己の人を見る目のダメダメぶりに大ショックを受けた次第です。
それどころか、そんなコミュニケーションが苦痛で仕方がない岡嶋氏に、オタク飲みしようぜと飲酒に誘い(しかもアルコールを飲むのは私だけ)、あまつさえパーティーとかにも一緒に参加したりしていたのです……。なんと罪深いことだったのか。
かくして深い慚愧の念とともに、改めて岡嶋氏にZoomでのインタビューを申請しました。今なら「発達障害との付き合い方」をテーマに、突っ込んだ本音が訊けるのではないかと思ったのです……。
岡嶋裕史(おかじま・ゆうし) 1972年、東京都生まれ。中央大学大学院総合政策研究科博士後期課程修了。博士(総合政策)。富士総合研究所勤務、関東学院大学経済学部准教授・情報科学センター所長を経て、中央大学国際情報学部教授(情報ネットワーク、情報セキュリティ)。『5G──大容量・低遅延・多接続のしくみ』『ブロックチェーン──相互不信が実現する新しいセキュリティ』(講談社ブルーバックス)、『ジオン軍の失敗 U.C.0079──機動戦士ガンダム ジオン軍事技術の系譜』(角川コミックス・エース)、『思考からの逃走』(日本経済新聞出版)など著書多数
──『大学教授、発達障害の子を育てる』、すごくいい本でした!
岡嶋 ありがとうございます。でも、井上さんに担当いただいた本も重版を重ねていますよ。本当にいい本にかかわらせていただいて、ありがとうございました。
──という嬉しいお言葉は、実は定型句の使い回しだったのですね……。
岡嶋 はい、そうやってコミュニケーションを乗り切ってまいりました。
──たしかに、今にして思えば違和感を持たなくもなかった。岡嶋先生から多くのご著書を献本いただいたのですが、謝辞の部分がどうもテンプレっぽかったのですよ。
岡嶋 そうでしたか? 決してコピペはせず頑張って書いていたつもりだったのですが!
──でもそれくらいしか気づきませんでした。私のような無礼な編集者とのコミュニケーションで苦痛を抱えながら執筆を重ねられてきたことに想いが及ばなかったこと、すみませんでした。
岡嶋 いえいえ! 人に害意を持つわけじゃないんですよ! 最初の5分、10分はなんとかまっとうな印象になるように頑張れるんですけど、それが30分、1時間となってくると、隠しおおせる自信がないんです。「いまこの瞬間に嫌われただろうか、次の発言で呆れられるんだろうか」とどきどきするのが心臓に悪いので、早めに切り上げたいんですよ。
──本書でも、発達障害において、他者との距離感がわからないのでかかわりを避けるタイプと、そもそも距離感を考える発想がなく乱暴に距離を詰めてきてしまうタイプと、2通りが描写されています。で、岡嶋先生が前者で、息子さんが後者であると。
岡嶋 ええ、グイグイくるんですよ。でも、中学生ともなるとある程度の社会性は獲得していて、知らない人相手にそこまでしなくなりました。話題も選んでいるような気がします。
──それは療育の成果で、選択的に行動ができるようになった、という話でいいのですか?
岡嶋 はい。とはいえ、この「療育」というものについての過度の期待は禁物です。どのような療育をしても、その子のポテンシャル以上にはならないと思うんですよ。逆に、早い遅いの違いだけで、ほっといてもポテンシャルを100%発揮できるところまでいくのかもしれない。
──だからといって療育は意味がないとは言えないですよね。
岡嶋 そうですね。たとえば、じっと座っていられない状態が20歳まで続くのと、10歳で終わるのとでは大違いです。それなら10歳から普通学級で教育を受けることができるかもしれないですよね。ポテンシャルは同じでも、人生のなかで獲得できる知識や技能に差が出てきます。ですが、療育にすごい夢を持ってしまって、とにかくリソースを注ぎこめば健常児と同じところまで行けるのではないか、と考えるのはマズいと思っています。
──あの、ここだけの話、それぐらい頑張ったら、いくらになるのですか?
岡嶋 ……ソシャゲ廃人といわれている人が、ゲームに突っ込む額に近くなるのではないかと。
──要するに、ひと財産ですね。これは簡単なことではないです……。
──そうなると、こんなにお金を使ったのだからと、療育に強く期待してしまうのも人情としてわかる気がします。
岡嶋 そうですね。ですが多くのお金をかけて療育をしても、その子の本来持っているポテンシャルを発揮できるところまでしか行けないかもしれません。それだけ、発達障害というものを簡単に考えてはいけないのだと思います。また、最近はこの事例は本当に発達障害かな? と疑問符がつくケースでも、「自分は発達障害だ、だから配慮せよ」と言ったもの勝ちみたいになってますが、これもいかがなものかと。
──本書には大人が急に発達障害の診断をもらいにいくことについての懸念も書かれていますね。ですが、この社会は当然、発達障害というものと共存していくでしょう。実際にそうなっている面もあると思います。
岡嶋 共存とはいっても、私は健常児と発達障害児を何でもかんでも混ぜればいい、という考えには反対です。健常の子にとっても負担になるでしょうし、障害がある側の子にとっては、配慮してもらったところで、多数の子と同じパフォーマンスは発揮できない。そうなると、ある空間の中で常に負け続けるわけで、そんな状態って本当にいいのかな、とも思うのです。「教育は勝ち負けじゃない」という言い方もありますが、現場を生きている子どもたちにとっては空疎に聞こえる言葉だと思います。
──ある程度は分けたほうがお互い楽だろう、というのが本書の主張でもあります。
岡嶋 どうしてみんなSNSが好きなのか、という話ですよ。ある程度、同属性でまとまってるほうが気楽だったりするじゃないですか。でも、そうは言い出しづらい雰囲気になっちゃってるんですよね。
──教育の潮流はおおむね、混ぜろ、そして生徒は主体的になれ、と言ってますよね。私自身もスペクトラムとしては自閉症寄りの側、つまり発言とか全然したくないし他の子どもと交われないいじめられっ子でしたから、「多様な個性の子どもが同じ場で学び、子どもは主体的に授業に参加する」というポリコレ的な教育現場は大嫌いでした。なんで積極的に発言とかして、教師やいじめっ子と一緒に授業を組み立てなきゃいけないんだ。効率的に知識を注入してさっさと帰してくれればよかったのに……ってずっと思ってます。
岡嶋 あれ、いやですよね。いま、息子がまさにそういう教育に直面して苦労していますよ。大学で教える身としては、考える力は欲しいんですけれども、知識の詰め込みもされた上で入学してきてくれないと、正直やりづらいです。そう言うと批判されますけれど。「考える力」っていうお題目のもとに、あまり知識を付けずにディスカッションとかだけで育ってきちゃった子って、やっぱり……。
──難儀ですよね。SNSでも「知らなかった。ごめん」が言えなくて不毛なレスバ(レスポンス・バトル)をはじめる人、いますし……。知識よりコミュニケーションを優先しすぎると、自分も世間も不幸になるんじゃないかなあ。
岡嶋 結局、オタクはオタク同士で楽しくやりたいのだからメインカルチャーに参加させないで放っといてください、という昔から私たちが言ってきた話に戻ってきてしまいましたね。(つづく)
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