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橋田壽賀子さんは「NOと言える脚本家」であり続けた

ペリー荻野 時代劇研究家

 4月4日に95歳で亡くなった橋田壽賀子さんは、誰もが認める名シナリオライターだった。「となりの芝生」「おしん」「渡る世間は鬼ばかり」など、その作品は日本のテレビ史に残る名シリーズだ。

 私はその足跡を尋ねる取材を幾度かしてきたが、そこで強く感じたのは、「書いたこともすごいが、書かなかったこともすごい」。自分には書くべきこと、書きたいことがあり、それ以外の仕事はしない。「NOと言える脚本家」であり続けたということだ。

 口で言うのは簡単だが、それを実行することがどれほど大変だったか。「局や視聴者の意見はぜーんぜん関係ない(笑)。あったかく書くか、辛口に書くかも自分で決めます。シナリオライターになったばかりのころは、いろいろと注文も受けましたよ。でも、頭にきちゃって」とご本人はユーモアを交えて語られたが、時代背景を考えれば、よほどの努力と精神力が必要だったはずだ。

橋田壽賀子さん脚本家・橋田壽賀子さん(1925─2021)

「NO」から始まった「愛と死をみつめて」

 「NO」の始まりは、戦後、飛び込んだ映画業界である。もともと日本語や演劇に興味を持ち、大学卒業後、松竹に入社。同期にはのちに日活に移り小林旭の渡り鳥シリーズの演出家として活躍する齋藤武市、『人間の証明』『典子は、今』の松山善三、『狂った果実』の中平康もいた。橋田さんは約1年の養成を経て、「脚本部」に配属され、女性のシナリオライター第1号となる。しかし、当初は雑誌の取材を受けるなど注目をされたものの、いざ、現場に出ようとすると「女に何ができる」と陰口を言われ、思うように仕事はできなかった。

 やがて人員整理で「秘書課」への配置換えに対して「NO」と決意して退社。少女小説を書いて収入を得ながら、知り合いの伝手で、テレビ局に脚本を持ち込む。まだ、大半のドラマが生放送だった時代。やっとのことで、採用されて映像化が決まったが、制作側の要望でシナリオが大きく変更になることもあり、悔しい思いもした。駆け出しの身では、とても「NO」は言えなかったのだ。橋田さんは、この悔しさを忘れなかった。

 やがて、TBSのプロデューサー、石井ふく子さんと組んで「東芝日曜劇場」などで秀作ドラマを書き続けた。そして、ここで橋田さんの「NO」が大きな反響を呼ぶ。64年、日曜劇場で放送されたドラマ「愛と死をみつめて」(主演・山本學、大空真弓)だ。難病のため21歳で亡くなった女性と恋人がやりとりした書簡をもとにした実話だった。

橋田寿賀子さん(写真右)とプロデューサーの石井ふく子さん=8月27日、東京都内のTBS2018年橋田寿賀子さんとTBSプロデューサーの石井ふく子さん(左)=2018年

 橋田さんが夢中で書いたシナリオは、電話帳くらいの分厚さで、「1時間1話完結」が原則の放送枠にはとてもおさまらない。困惑する石井さんに橋田さんは、

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