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大竹しのぶが歌い、笑い……荒む

『つかこうへいのかけおち'83』⑤

長谷川康夫 演出家・脚本家

 NHKの銀河テレビ小説『つかこうへいのかけおち'83』が出来るまでをつづるシリーズの5回目。つかの〝口立て〟に応えて、25歳の大竹しのぶの演技が冴えわたった。

上機嫌でリハーサルは続いた

 1983年7月25日から5夜連続で放映されたNHKドラマ『つかこうへいのかけおち'83』のリハーサルが始まったのは、その2カ月ほど前のことだったと思う。これもまた『つか版・忠臣蔵』のときと同じく、我々の劇団での芝居作りそのままに、つかの〝口立て〟によって、台本にはない台詞や、新しい場面などが次々と生まれていくというものだった。

稽古場でのつかこうへい=©斎藤一男
 だがそれはさらに徹底していて、舞台公演の稽古同様に、ひと月近く続いたはずだ。僕らは連日、渋谷にあるNHK放送センター内の巨大なリハーサル室に通い、ジャージに着替え、稽古に臨んだ。

 普通のテレビドラマではまず考えられないそんな形が許されたのは、前回書いたように、やはり当時の「つかこうへい」という名前の力であり、プロデューサーの村上慧を始めとするNHKサイドの、その時代にあった、制約に捉われない自由な番組りのおかげだったろう。

 このときの稽古で何より思い出に残っているのは、我々が十年来、稽古場で浴びせられてきた、つかによる罵声やねちっこいいたぶりが、一切影を潜め、ただただ機嫌よく、張りのあるその声が、毎日リハーサル室に響き渡ったことだ。

 そうさせたのは『かけおち』という物語を引っ張るヒロイン、セツ子を託された大竹しのぶの存在であったことは、前回書いた通りだ。この女優との出会いによって、稽古場でのつかは、開始当初からひたすらトップギア状態が続き(なかなかあることではない)、彼女に芝居を付けて行く作業を心から楽しんでいた。

つかと大竹しのぶの共鳴

大竹しのぶ=1982年撮影
 つかが「俺の芝居は」と語るとき、そのあとに続くのは、「役者によって作らされる」であり、「その役者が持っている言葉以上の台詞なんて生まれてこない」であり、「俺の哲学と役者の持つ哲学が共鳴し合って初めて出来上がる」といったものであることは、何度か書いてきたが、このときの大竹しのぶとの芝居作りは、まさにその言葉を実証していた。

 それはつかの芝居を長く支え、〝伝説〟となる空前のブームを共に駆け抜けた、平田満や三浦洋一、風間杜夫、根岸季衣らとの関係さえ、思わせるものだった。

 『かけおち'83』の中には、そんなつかと大竹の共同作業ともいうべき〝口立て〟だからこそ生まれた「名台詞」がいくつもある。

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