前田和男(まえだ・かずお) 翻訳家・ノンフィクション作家
1947年生まれ。東京大学農学部卒。翻訳家・ノンフィクション作家。著作に『選挙参謀』(太田出版)『民主党政権への伏流』(ポット出版)『男はなぜ化粧をしたがるのか』(集英社新書)『足元の革命』(新潮新書)、訳書にI・ベルイマン『ある結婚の風景』(ヘラルド出版)T・イーグルトン『悪とはなにか』(ビジネス社)など多数。路上観察学会事務局をつとめる。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
【36】ジェリー藤尾「遠くへ行きたい」、山口百恵「いい日旅立ち」
前回では1970年代を華麗に彩った資生堂VSカネボウによる〝歌合戦〟を取り上げたが、ほぼ時期を同じくして、それをはるかに超える規模の歴史的キャンペーンがスタート、そこでも歌が大きな役割を果たした。
キャンペーンとは「ディスカバージャパン」。1970年9月に終了した大阪万博の1月後に旧国鉄によってはじめられ、途中で何度かバージョンアップがはかられながら、国鉄が分割民営化される1987年まで17年にもわたってつづけられた。そして、その史上最大にして最長のプロモ―ションには、キャンペーンソングがそこへ人々を大動員する〝ハメルンの笛吹唄〟として深く関わっていたものと思われる。
その〝笛吹唄〟こそ、「遠くへ行きたい」(作詞・永六輔、作曲・中村八大、歌・ジェリー藤尾、1962年)と、「いい日旅立ち」(作詞/作曲・谷村新司、歌・山口百恵、1978年)である。
美空ひばりにはじまりユーミンや中島みゆきまでの「戦後昭和歌謡」の保守本流とくらべると、所詮キャンペーンソングなどは商売がらみゆえに一時の泡沫にすぎないと思われがちである。ところが、ときに世につれるどころか、世の中のあり方を変えてしまうことすらある。まさに、ディスカバージャパンの「遠くへ行きたい」と「いい日旅立ち」は、その典型事例であったといえるかもしれない。
そこで今回は、この2曲を取り上げ、それが時代の転換の一大モメントとしてどのような役割を果たしたのかを、歴史的文脈から読み解こうと思うが、その前に、まずはディスカバージャパンのスタート時に時間をまき戻して、その経緯をおさらいしておこう。
歌:ジェリー藤尾「遠くへ行きたい」
作詞:永六輔、作曲:中村八大、歌・ジェリー藤尾
歌:山口百恵「いい日旅立ち」
作詞/作曲:谷村新司、歌・山口百恵
時:1970年/1978年
場所:日本のどこか
そもそもディスカバージャパンは、1970年の大阪万博の終了による「乗客減」に対処すると同時に、国鉄の長年来の累積赤字の解消をも狙った〝一石二鳥作戦〟であったが、前評判は必ずしも芳しくなかった。
ちなみに読売新聞は、それがスタートした直後の11月13日付の朝刊で、「国鉄のケチケチ運動」「お客忘れた赤字対策」「サービス抜き旅宣伝」の見出しを掲げ、ほぼ全頁をついやして、国鉄の歴史始まって以来のキャンペーンの〝動機〟がいかに〝不純〟であるかを指摘している。
まずディスカバージャパンの動機には、「膨大な赤字を抱えて四苦八苦の、ニガ虫をかみつぶした国鉄の顔がのぞいている」と評し、その証拠として、これに先立ってつぎつぎ打ち出された〝苦肉の策〟――たとえば駅舎の蛍光灯の間引き、トイレットペーパーの1日1巻に限定などの「ケチケチ運動」から、手小荷物取り扱い時間を午前9時から午後5時へ大幅短縮するいっぽうで、より高いコイン・ロッカーへ客を誘導するなどの「利用者不在のサービス・ダウン」を列挙。その上で、ディスカバージャパンにたいする〝世間の声〟を次のように紹介している。
「記念スタンプや展示列車の運転、まるでお祭りだ」
「東北再発見とかいうポスター、意味ないね。その分を他の広告でも扱った方が赤字の穴埋めになる」
「肝心なこと知らせず、ただ旅へ出ろ、出ろという宣伝、仮にも国鉄のやることではない」
さらに、評論家の浦松佐三太郎による「(国鉄は)企業として考えてくれというが、企業であればとっくの昔に社長(総裁)以下全員がクビになっている。なにをやるにも国民へのサービスが忘れられるようなことが絶対あってはならない」のコメントを掲げて記事はこう結ばれている。
「『キャンペーンの良否はともかく、一方でサービス・ダウンを押し付けている時だけに、もう少し国民感情を考える必要がある』というのが、また国民の本音でもあるようだ」
論座ではこんな記事も人気です。もう読みましたか?