[7]高度で組織的な「世界」観と、素朴で感覚的な「世界」観
2021年06月02日
人は死んだらどこへ行くのか。
決して怪しい話をしようとしているのではない。古今東西の宗教が模索してきた問いである。そして、この「死後の世界」観は、宗教によって多岐にわたる答えが用意されている。
それでは私たちにとって身近な仏教では、どう考えているのだろうか。
実は、仏教でも、明確な回答が無い。というよりも、立場によって考え方が異なっている。
それは大きく三つの「死後の世界」観に分けることが可能だ。
一つ目は、人は死んだら浄土に行く、という考え方である。そして、浄土という場所は、生きている時のように苦しみを感じることなく、安らかに過ごすことの出来る場所だ。
二つ目は、人は死んだら輪廻(りんね)する、という考え方である。仏教の輪廻では、人は死んだ後、六道(りくどう)、つまり天(てん)の世界、人の世界、修羅(しゅら)の世界、畜生(ちくしょう)の世界、餓鬼(がき)の世界、地獄(じごく)の世界のうち、どれかに生まれ変わるとされている。このうちどこに生まれ変わっても、たとえ天や人に生まれ変わったとしても、苦しみが続くと考えられており、この輪廻からの「解脱(げだつ)」が仏教の理想とされている。生きること自体が苦しみであると考える仏教思想が前提にある世界観である。
そして三つ目は、死んだら終わり、という考え方である。釈迦は、死後の魂の存在について触れることはなかったとされている。そのため、仏教は死後の世界を想定しないという考え方である。
ちなみに日本の仏教では、一つ目の、死んだら浄土に行くという考え方が主流である。浄土系の浄土宗や浄土真宗は、まさにこの考え方が教義の中心にあるし、他にも浄土を説く宗派は多い。逆に、禅宗系の宗派は、死後の世界に触れることは少ないようだ。
それでは日本の仏教徒は、死後の世界について、どう考えているのだろうか。
日本消費者協会の調査によると、日本で行われる葬儀の87.2パーセントが仏式で行われているという(『「葬儀についてのアンケート調査」報告書』2017年1月)。つまり9割近くの人が、仏教で死者を送っているということになる。
もちろん仏式で葬儀を行っているとはいえ、仏教の教えに深い関心を持っている人は少なく、そのほとんどは死後の世界についても明確なイメージを持っているわけではない。
どちらかというと「あの世」というおおざっぱであいまいなイメージを持つ人が多い。死んだらお墓にいる、仏壇にいると考える人もいる。死んだら、あの世ではなく、この世界のどこかにいると考える人もいる。それは山の向こうだったり、草葉の陰だったりということもある。天国と考えている人もいるだろう。ただこの場合の天国は、キリスト教の教義の中にあるような天国ではなく、「あの世」という言葉に近いあいまいな場所である。
そして、ここに挙げたどれか一つ、ということではなく、複合的な感覚を持っていることが多い。時に応じて、状況に応じて、あの世にも、お墓にも、仏壇にも、浄土にも、天国にも、山の向こうにも、草場の陰にもいるのである。それは一見矛盾しているようであるが、人間の感覚というのは、そんなものである。
もちろん、死んだら終わりと考える人もいる。ただ「死んだら終わり」派も、実は複合的な感覚を持っている人が少なくない。普段は「死んだら終わり」と思っているが、墓参りをする時などは、死後の人格的な存在がそこにいることをイメージして手を合わせているのが自然だろう。死後、魂がどこかに存在していると、無意識に信じているのだ。
ほとんどの日本人は、このような複合的であいまいな「死後の世界」観を持っている。そのような「死後の世界」観は、仏教の教義には存在しないが、仏教という信仰の中に息づいているのも確かである。つまりこれも仏教の「死後の世界」観であるのだ。
平成18(2006)年に『千の風になって』という曲がヒットしたことを覚えている人は多いだろう。実はこの曲のヒットは、仏教界にとってかなりの衝撃だった。
それは、歌詞(新井満訳)にこれまでの仏教のあり方を否定しかねない内容があったからだ。特に問題になったのは、次の二つのフレーズだ。
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