2021年06月03日
表現を最小限に切り詰める禁欲的な作風で知られる、ロベール・ブレッソン監督(仏、1901~1999)。ブレッソンはしばしば“孤高の映画作家”と呼ばれるが、それはまさしく、他に類を見ない独自のミニマルなスタイルゆえに、映画史的な位置づけが難しい監督だからである。
そんな彼の長編第3作、『田舎司祭の日記』(1951、モノクロ)が、製作から70年を経てついに劇場初公開される(6月4日より、東京・新宿シネマカリテほか)。必見の傑作だが、対独レジスタンス映画『抵抗──死刑囚の手記より──』(1956)、犯罪映画『スリ』(1959)で確立されるミニマリズムの極致ともいうべきブレッソン・タッチへと至る、いわば過渡期的な“実験映画”である点でも、非常に興味深い作品だ(原作はジョルジュ・ベルナノスの同名小説)。
描かれるのは、北フランスの寒村アンブリクールに赴任した敬虔な若い司祭(クロード・レデュ)の孤独をめぐる、沈鬱でメランコリックな受難劇である。──額の広い、生まじめで神経質そうな彼は、体調不良(胃痛)を抱えながらも、布教活動に身を捧げる。が、その熱意ゆえにかえって、彼は閉鎖的で陰険な村人たちから疎まれ、煩悶する(ある少女は信心深いふりをして、主人公を笑いものにする)。
まさしく、パッション/情熱とは<受苦>なのだが、主人公にとって教区アンブリクールは、偽善や虚言のはびこる悪の園だった(「わたしは“聖なる苦悩”の虜なのだ」、「彼、彼女ら〔村人たち〕を正しい道に導くのが司祭の役目だ」、と主人公は静かに独白する)。もちろん、日々煩悩(ぼんのう)にまみれて生きている私は、彼の苦悩や葛藤を十分に理解することはできない(身近に彼のような人物がいたら、信仰心に凝り固まった暗いヤツ、と思うかもしれない)。
しかし、誰しも経験があるだろう、自分の伝えようとしたことが相手に伝わらない不如意(ふにょい)を、村人たちに信仰を説くが彼らにはそれが伝わらない、という主人公の無力感に重ねて本作を観ることはできる。
映画技法として重要なのは<日記>の活用だが、タイトルにも示されるように、主人公/司祭は日々の出来事やそれにまつわる自分の思いを、詳細に日記帳に書き記していく。そして、その文字のつらなりが何度も画面に映し出され、またそれを読み上げる彼の声が、ナレーション(内的モノローグ)となって繰り返されるので、文字の映像とそれを読み上げる彼の声は、物語の進行役ともなる。
また、仏ヌーヴェル・ヴァーグを担ったトリュフォー、ロメール、ゴダールら、さらに彼らと協力関係にあったジャン=マリー・ストローブらに大きな影響を与えた、こうした文字や声の活用法は、役者の大仰な演技を忌避するブレッソンが、主人公の内面や物語のシチュエーションを、演技以外の手段で表すために考えついた工夫でもあろう。
本作以降のブレッソン作品でも、こうしたナレーションはしばしば用いられ、他方、役者はいよいよ無表情になり、そのセリフ回しもいよいよ抑揚を欠いて一本調子になり、大胆な省略法とあいまって、一切の無駄を画面からそぎ落したような、いわば“映画の極北”をめざすがごとき彫心鏤骨(ちょうしんるこつ)のブレッソン・タッチが確立されるのだが、ちなみにブレッソンは、本作のクロード・レデュらがそうであるように、しばしば素人の役者を起用し、彼、彼女らをプロの俳優と区別して「モデル」と呼んだ。
そして逆説的なことに、固い無表情(表情の零度)で登場し、棒読みのようなセリフ回しで喋る「モデル」たちは、
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