2021年06月04日
私が初めて中国を訪れたのは1986年。まだ個人旅行は難しく、グループツアーに参加して、上海と北京とを見ることができました。なにより飛行機の窓から黄河を見たことが忘れられません。
その時ガイドを務めてくれたのは、延辺朝鮮族自治州出身の朝鮮族の女性でした。その女性に、それ以前に何度も訪れていた韓国の著しい発展ぶりなどを話しながら、万里の長城を歩きました。韓国は明らかに経済的な離陸を果たしていましたが、北京の繁華街である王府井(ワンフーチン)を歩くと、魯迅が描いた20世紀初頭の中国を彷彿とさせる物売りのお爺さんがいたりして、懐かしい気持ちになったことをよく憶えています。
なにより私を驚かせたのは、大通りを走る有名な自転車の大群でした。テレビ番組で観ていたとはいえ、実際に目にする自転車の洪水は、想像をはるかに超える迫力がありました。そしてもう一つ私に強烈な印象を与えたのは、紅衛兵たちが壁に殴り書きしたスローガンです。日本の学生運動でも使われた「造反有理」などという文字をまさかこの眼で見ることになるとは夢にも思いませんでした。
その後も何度も中国を訪れました。天安門事件の翌年、その広場には戦車のキャタピラの跡がくっきりと残っていました。それから数年後に上海を訪れた時に、評判になっていたバーでギムレットを飲んだことがあります。共産主義を標榜する国で、アメリカのハードボイルド小説に登場する探偵たちが愛飲するカクテルを飲んだ時、この国が大きく変化していくのを実感しました。
やがて、上海には高い近代的なビルが立ち並ぶようになり、北京も自転車ではなく、車の洪水で道を渡るのが怖いくらいになりました。しかしこの10年、なぜか中国を一度も訪問しなかったことを深く悔いています。
ここ数年、存在感が一段と増した中国とアメリカの経済摩擦の激しさは新冷戦の始まりとも言われてメディアで連日報じられています。共産党指導部の香港の民主派への強硬な弾圧が大きなニュースになり、アメリカと中国の関係悪化はもはや周知のものとなりました。
しかし、米ソ対立の冷戦時代を知っている人間から見ると、確かに同じような激しい応酬が続いているように見えて、なにか決定的な違いがあるようにも感じられてなりませんでした。この事態の本質を、歴史的な背景に触れながら解き明かす本に出会うことができました。『内側から見た「AI大国」中国──アメリカとの技術覇権争いの最前線』(福田直之著、朝日新書)を読むと、大袈裟ではなく蒙を啓かれる思いがしました。
最初に本書を書店で手に取って「はじめに」を読み始めると、「我々は中国との戦略的競争を激化させている人工知能(AI)の競争に勝たなければならない」というグーグルの元会長エリック・シュミットたちの書いた、アメリカの国家安全保障委員会の最終報告書の緊張感溢れる冒頭部分が紹介されていて、思わずひきこまれてしまいました。
データが多ければ多いほど良い結果が得られる。もしデータがオイルならば、中国は新たなサウジアラビアだ
これは著者の福田さんが2018年9月に米アップル、マイクロソフト、グーグルの重役を歴任した李開腹(リー・カイフ―)の北京での講演で聞いた言葉です。中国の人口は世界で最も多いわけですから、結果として世界最大のデジタル社会が存在することになり、インターネット利用者の数はこの5年で43.7%も伸びたということです。しかも99.7%の中国人はスマートフォンでインターネットにアクセスしていますから、ここには本物のデジタル社会がいきなり出現したと言っても過言ではないと思います。
この講演を聞いた著者は、中国理系最高峰である清華大学教授でAIを研究している鄧志東(トン・チートン)に話を聞きに行きます。
中国は個人情報保護があまりできておらず、AI開発では利点かもしれない。プライバシー保護が比較的健全な国では、機密性の高いデータの削除やデータの匿名化などを行うのに時間がかかる
私にはこの鄧教授のコメントに対する著者の補足が示唆的でした。中国では個人情報に対する意識が先進国ほど高くないので、街中にある監視カメラを恐れる人はほとんどいない。これは第2章で詳述されますが、データが取りやすくなればなるほど、AIにとっては福音以外のなにものでもありません。その膨大なデータを使った最新の技術が次々と開発されるからです。
著者はアリババの本拠地である杭州市にあるケンタッキーフライドチキンの店に行って顔を見せるだけでオーダーできるシステムを体験します。支払いも顔で認証が終わると携帯番号を入力するだけです。財布もスマートフォンも忘れても大丈夫というわけです。こういう実験的で大胆な試みが2017年から18年にかけてさかんに行われていたと言います。
しかも著者が留学生活を送った2013年夏から14年夏まではアリペイというキャッシュレス決済サービスはまだ普及せず、しわくちゃで汚れた紙幣で飲み物や新聞を買っていたのですが、特派員として赴任してきたら、コンビニ、ラーメン屋、シェア自転車、地下鉄などまったく現金なしで暮らせるようになっていたという激変ぶりも紹介されています。
しかしながら、前に触れたようにレストランなどでの顔認証の便利さならともかく、世界にある7億7000万台の監視カメラのうちの54%が中国にあるというのです。1000人当たりの監視カメラの設置数で世界の上位20都市のうち、18都市が中国国内にあることになります。意外なことに3位はロンドンだそうですが、それにしても中国は凄まじい監視社会だといえるでしょう。こういうAI技術は今盛んに報道されているウイグル族の監視にも使われているという著者の指摘は重要です。
私がこの部分を読んでいて思い出したのは、ジョージ・オーウェルの『一九八四年』で描かれる「ビッグ・ブラザーがあなたを見ている」という有名なフレーズでした。監視カメラのおかげで、北京市公安局(警察)の発表によると2019年の殺人事件、強盗事件も100%の解決率だということですが、正直、これは誇れる数字だといえるかどうか。
しかしながら、このようなAI技術を駆使する中国にも意外なアキレス腱があったのです。第3章を読んで、これだけAIにおいて世界で抜きんでた存在となった今も最先端の半導体を自国で製造できない。それを供給してきたのが台湾の世界最高の技術を持つ台湾積体電路製造(TSMC)という企業だということを初めて知りました。
加えてこの章で大変面白く読んだのは、東洋学園大学の朱建栄教授が2019年に日本記者クラブの講演会で「6割法則」を披露したくだりです。
他の新興国がアメリカの国力の6割に追いついた時点で、米国はもう落ち着いてはいられなくなる。必死に振り落とし作戦にかかる
米中摩擦が先鋭化した2018年の中国のGDPはアメリカの67.2%。1988年に日米半導体摩擦が起きた時は日本のGDPはアメリカの58.7%だったという事実は、とても興味深いと思います。米中の問題だけでなく、過去に日本自体も今日の中国と同じ立場に立たされたことがあったことは重要な事実として認識されるべきです。そして著者の次の指摘はまさに現実をよく見つめるべきだという警鐘になっていると思います。
米中は「新冷戦」と呼ばれるほど冷え込んでいるが、米ソの冷戦との違いは米中の間が経済的に強く繋がったままである点だ。(中略)米中はハイテクでファイティングポーズをとりながら、ローテクでは握手を続けている
第4章では、中国を代表する経済人といえるアリババの創業者ジャック・マーとアメリカの電気自動車メーカー、テスラを率いるイーロン・マスクが、2019年8月に上海で行った世界人工知能大会での対談が紹介されています。イーロン・マスクはAIの技術が人間の理解を超えていくことに危惧を抱いているのですが、ジャック・マーは「AIは脅威ではない。人間は賢い」と反論したといいます。この楽観こそが、中国の経済人の特徴であることを知りました。そして世界で話題になったジャック・マーと指導部との衝突の背景も書かれています。
最後の章で紹介されているのは、AI技術を駆使する人々の多くを占める20~40代の若い男女の起業家たちです。顔認識が可能なハイテク眼鏡。コロナウイルスの肺炎検知ができるシステム。シェア自転車。ボタン一つで360度の撮影ができるカメラ。折りたためるディスプレイ。誰でも簡単に作れるロボット。西部の甘粛省の山あいにある村から農産物をライブコマースする34歳の女性には、興味を惹かれました。なんとSNSで44万人のファンを持つというこの女性は、農村のビジネスチャンスを大きく広げることに成功しました。これはわが国でも大いに参考になるという著者の指摘に賛成です。
イーユン・リーは、1972年に北京で生まれた中国人です。アメリカの大学院で免疫学を学ぶために渡米。その後、母語ではなく、なんと英語で小説を書き数々の賞を受賞しています。「中国のチェーホフ」とも呼ばれていると訳者の解説にあります。代理母問題を扱った短編など、現代中国のさまざまな社会的問題を描きながら、人々の心のありようがひしひしと伝わってくる内容です。
政治と経済の話はもちろん重要ですが、米中の角逐が言われるなか、アメリカに住んで英語で現代の中国人の心情を描く作家の小説を読むことは貴重な体験になると思います。ぜひ、一読を。
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