2021年06月07日
6月1日、休業を余儀なくされていたシネコンなど大手映画館が、時短営業という形ではあるもののようやく再開された。3度目となる緊急事態宣言が発令されたのが4月25日だから、休館していたのは、37日間になる。だが大手映画館が休館していようともミニシアターの大半は感染対策を行いつつ、上映を続けていたわけだから、映画がまったく見られないわけではなかったし、サブスクを利用すれば、いつでも好きな時間に好きな場所で映画を観ることだってできた。
なのに、この「失った37日間」、心のダメージがことのほか大きかったことに正直自分でも驚いている。
それをもっとも痛感したのが、第93回アカデミー賞の作品賞、監督賞、主演女優賞の3部門を受賞した『ノマドランド』を再見できないという事実だった。アカデミー賞の発表は、日本時間の2021年4月26日。つまり4都府県(東京、大阪、兵庫、京都)で緊急事態宣言が発令されたばかりの最悪なタイミング。
そんなことも知らない(当たりまえだ)名優フランシス・マクドーマンドは、オスカー像を手にしながら言った。「この映画は、大きなスクリーンで観てほしい」と。でもね、東京ではそんなことできなかったのだ。だって上映館はゼロになってしまったから。これが、2021年4月26日以降、5月31日まで続いたコロナ禍の日本のリアルだった。
『ノマドランド』は、現代のノマド(遊牧民)と呼ばれている車上生活者たちの生活を追ったロードムービーだ。映画の冒頭では、荒涼とした大地で慌ただしく用を足す主人公ファーン(フランシス・マクドーマンド)の姿が映し出される。このシーン、何にも縛られずに行きたいところに行って自由気ままに暮らすという、「ロマンチックなノマドライフ」を少しでも期待していたら、ものの数分で吹き飛ばすだけの破壊力がある。つまり、これは観客への最初の軽いジャブ。「これが現実よ」と突きつけているのだ。
ファーンが暮らしていたのは、ネバダ州のエンパイアという小さな町だが、愛する夫を亡くし、その夫が働いていた工場も不況のあおりで閉鎖したことで、町の住人たちは立ち退きを強いられてしまう。ひとりぼっちになったファーンは、一部の思い出の品以外の家財道具を倉庫に預け、“ヴァンガード(先駆者)”と名付けた古いバンに乗って、ノマドたちを繁忙期限定で雇用しているAmazonの配送センターに向かうのだ。
短期の仕事を求めてファーンのように車で移動する季節労働者たちは、「ワ―キャンパー」と呼ばれている。劇中に登場するワ―キャンパーたちは、PDSD(心的外傷後ストレス障害)の後遺症に悩む元ベトナム戦争の帰還兵、両親をがんで亡くして癒しの旅に出た女性、「時間を無駄にするな」という友人の遺言に従って仕事を辞めた人などさまざまだが、その多くはリーマンショックなどで、職を失い、住む家を失った中流社会からこぼれ落ちた人たちだ。受給できる年金はわずかで蓄えもないことが多く、高齢だからという理由で仕事をリタイアする日が来ることはない。
原作の『ノマド──漂流する高齢労働者たち』(ジェシカ・ブルーダー著、鈴木素子訳/春秋社)を読むと、ワ―キャンパーたちを取り巻く状況がさらによく理解できる。
必要とする場所、必要な時に集まってくれるワ―キャンパーは、雇用者にとって大きな即戦力になるという。しかも彼らは、福利厚生や社会保険を要求しないし、何も言わずとも仕事がなくなれば次の職場へと移動していく。さらに「追加生活保護の対象となる所得の高齢者」「フードスタンプ(政府が発行する食料配給券)の受給者」など、「雇用機会上のハンデをもつ」とされるカテゴリーに属する労働者を企業側が雇用すれば、雇用税額控除も受けられる。
雇用側にとっては願ったり叶ったりだし、雇用される側からしても高齢でも仕事に困らず、雇用期間中は駐車場をあてがわれているので寝泊まりの場所を探す苦労もない。都合のいい労働力の搾取とも言えそうだが、実に歪(いびつ)な共存関係が成立しているのだ。
リアルだということが賛辞の一つとして挙げられている作品だけに、劇中で季節労働の過酷さや不遇さにあまり焦点が当てられていなかったことは、
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