2021年06月14日
『一度きりの大泉の話』(河出書房新社)が出てからというもの少女マンガ界隈ではいまだに蜂の巣をつついたような大騒ぎ状態である(多少大ゲサに言ってますが)。
読んでショックを受けた、読んで泣いてしまった、腹がたった、混乱した、胸が痛んだ……等々、すごかった。出版されてから2カ月近く経った今、当初の騒ぎは収まり、別の混沌となり、熟成されて、最初の頃とはちょっと違った感じになっている。
「いったい、誰がいけなかったのか」
どうも、話はそっちの方向に進んでいるような……。
5ちゃんねるの少女漫画板でも、前から「萩尾望都スレ(ッド)」はあったが、この本が出版されると「大泉スレ」がたち、それも、
「【萩尾望都】大泉スレ【竹宮惠子】」
「【萩尾望都寄りスレ】大泉本を読んで【竹宮惠子批判OK】」
「【竹宮惠子寄りスレ】大泉本を読んで【萩尾望都批判OK】」
と三つもある。タイトルがすでに不穏すぎる。この三つのスレが、着々と更新を続けている。
それほどたいへんなことだったのだ、『一度きりの大泉の話』が出たことは。
私がはじめて読んだのが『11人いる!』だ。中学の夏休みに田舎にいって従姉妹の読んでた『別冊少女コミック』を借りて読んだ。
『マーガレット』派で萩尾望都を知らなかった私は、「なんなんだこれは」と衝撃を受けた。「こんなマンガ読んだことねえ……!」
絵は魅力的だし、SFなんだけど今まで読んでたマンガや物語とはまるで違う世界で適度なワケのわからなさもあり、「すごいもん読んだ」と思った。
好みであろうがなかろうが、「この人はマンガ家として、他の人とはちがう」ということぐらいは、マンガを読んでたら誰でもわかる。それが萩尾望都。
その萩尾望都の、文字の本。美しいエドガー(『ポーの一族』の主人公の吸血鬼の美少年)と青いバラの、それはそれは美しいカバー。
それが、竹宮惠子とのゴタゴタを書いた本らしいのだ! えええーっ。
直ちに買いこみましたよ私。というのも、私はずっと、萩尾望都と竹宮惠子というマンガ家ふたりについて、いろいろ思うことがあったからだ。
高校時代、漫研の部員(恥)でやおいマンガ好き(大恥)だった私は、『風と木の詩』や、竹宮惠子が表紙やマンガを描いていた『COMIC JUN(後のJUNE)』を読んで、ずっと思っていたことがある。
あくまで私の感じたこと、と断ってから書くと、「萩尾望都と竹宮惠子って、なんか二人並び称されてたりするけど、並ぶ人ではないのでは……」ということだった。
この二人は、マンガ家になりたての頃、練馬区大泉のアパートで同居していた。それでこのアパートが「大泉サロン」とか言われて(それが『一度きりの大泉の話』のタイトルの由来にもなっている)、その意味で二人の名前がよく出るのはわかるとしても、この二人の並び称され方って、私には「ちがう」としか思えなかった。
萩尾望都のマンガは古びないが、竹宮惠子のマンガは古くなってしまう。
これは竹宮惠子を貶めているのではなく、萩尾望都がすごいという話で、ほとんどすべてのマンガ家のマンガが年月を経ると古くさくなってしまうので竹宮惠子がダメというわけじゃなく「ごくふつう」のことなのだ。
(他に「古びないマンガ家」の例を挙げれば、長谷川町子がそうだろう)
ただ、いつもなんとなく「萩尾望都と竹宮惠子」と並べられてたから、いったいこのことについて竹宮惠子はどう思ってるんだろう、というのが疑問だった。
メディアに出てくる竹宮さんて人は、自分の能力やセンスに自信満々で、漫画教室とかやって人に指導したりするし、自己評価がすごい高い人っぽく見えるので、自分と萩尾望都が少女マンガ界の両雄である、という意識があったりするのでは。あれだけのマンガ家だし自信あって当然とは思うが、それにしても……。
などという私の勝手で失礼な思い込みは、竹宮さんの書いた『少年の名はジルベール』(2016年、小学館)という、自伝のような本を読んだ時に崩れた。
この本を読んで、私は
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