2021年06月17日
[1]社会現象となった『モルカー』と異色の長編『JUNK HEAD』
[2]短編『ギョロ 劇場へ』、「コマ撮り大道芸」、労作『DINO!』
[3]短編『オイラはビル群』、『こぐまのユーゴ』、長編企画『星は巡る』
2020年12月19日から本年3月28日まで国立映画アーカイブ(東京・京橋)で企画展「川本喜八郎+岡本忠成 パペットアニメーショウ2020」が開催された。5月8日からは4Kスキャンによって修復された川本・岡本両氏の代表的10作品が全国の劇場で巡次公開中である。
川本喜八郎氏と岡本忠成氏は、共に1960年代から日本のストップモーションを牽引した先導者・開拓者であり、競って作品を制作したライバルであり、盟友でもあった。二人は作風も技法も対照的であったが、何と誕生日は同じ1月11日。川本氏は2010年、岡本氏は1990年に逝去しており、2020年はそれぞれ没後10年と30年の節目であった。
「川本+岡本 パペットアニメーショウ」は、ストップモーション・アニメーション作品の上演とライブ操演による人形芝居劇を組み合わせた画期的なイベントであり、1972年に初めて開始された。芸能人・著名人を含む一般観客を集め、1976年まで年1回、5年連続で開催され、1980年の第6回まで続いた。
今回、実に40年を経て「パペットアニメーショウ」が企画展として復活した。貴重な人形や資料を後世に遺すためにも、適正な保管や展示は大きな課題である。今後も全国各地で巡回展が継続されることを願う。
日本のストップモーションの歴史が回顧され、改めてその高い技術と志が認識し直される絶好の機会である。
川本喜八郎+岡本忠成 パペットアニメーショウ2020
アニメーションの神様、その素晴らしい世界 Vol.2&3 川本喜八郎、岡本忠成監督特集上映
川本氏は日本の伝統芸能である文楽や能の様式をアニメーションに導入し深化させた。その作品群は国際的映画祭で数多く受賞し、各国のアニメーションの巨匠・名匠から敬意を表されていた。
幼少期から人形を手作りしていた川本氏は東宝撮影所美術部を経て、人形を扱った舞台劇・絵本・広告などに携わった。チェコの絵本作家で人形アニメーションの巨匠イジー・トルンカによる長編『皇帝の鴬』(1948年)、『バヤヤ』(1950年)に衝撃を受け、アニメーションの道を志す。
1952年、劇作家・飯沢匡氏の勧めで中国から帰国した人形アニメーションのパイオニア持永只仁氏の指導を受け、アサヒビールのCM『ほろにが君の魔術師』にアニメーターとして参加。この作品が日本で制作された最初の人形アニメーション作品である。
1963年から1年半チェコスロバキア・プラハに留学し、トルンカに師事。帰国後に壬生(みぶ)狂言の滑稽話を原作とした『花折り』(1968年)を演出。続いて演出した『今昔物語』の一編を原作とした『鬼』(1972年)、「安珍清姫」や能の演目を題材とした『道成寺』(1976年)、能の演目「求塚」を翻案した『火宅』(1979年)は「不条理三部作」と称された。いずれも日本画的美術様式を基に、文楽や能の所作を採り入れ、人形ならではの静かな狂気と情念に昇華させた傑作として名高い。
また、川本氏はパペット作品とは異なる作風のカットアウト(切紙)によるストップモーション・アニメーション作品『旅』(1973年)、『詩人の生涯』(1974年)なども制作。今回のプログラムからは外されたが、長編『蓮如とその母』(1981年)、『死者の書』(2005年)、中国との合作『不射之射』(1988年)、チェコのトルンカスタジオで制作した『いばら姫またはねむり姫』(1990年)など秀作は数多く、それぞれ異彩を放つ。
晩年は国内外のアニメーション作家35名を総結集させた『連句アニメーション「冬の日」』(2003年)の企画・監督も務めたが、これは川本氏でなければ不可能な空前絶後の企画であった。
一方で川本氏は、NHKのテレビドラマ『人形劇 三国志』(1982〜1984年)、『人形歴史スペクタクル 平家物語』(1993〜1995年)の人形制作も担当。その一部は「川本喜八郎人形美術館」(長野県飯田市)、「渋谷ヒカリエ 川本喜八郎人形ギャラリー」に展示されている。
川本氏は1996年、銀座の日動キュリオで開催された「川本喜八郎展」トークショーで「諸葛亮孔明の首(カシラ)を作っている時、うまく行かず途方に暮れていた。すると深夜に《私の顔はこうではない》と声が聞こえ、自然に手が動いて完成した。だから
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