緊急事態宣言下では、休業した書店が少なくなかった。「本屋さんで飛沫を飛ばしている人なんかいないのに」と思う一方で、外出の理由を減らすためと考えれば仕方ない。いや、だったらなぜオリンピックはできるのだろう。オリンピックのことを考えるともやもやが膨らむ。
話がずれたが、私の住む神奈川県はまん延防止等重点措置にとどまり、本屋さんは開いていてくれた。いつも行くお店で、物々しいタイトルとインパクトのあるカバーに思わず手を取った。翻訳物でこの厚さ、読み切れるだろうか……と心配もよぎったが、まったくの杞憂だった。『BAD BLOOD──シリコンバレー最大の捏造スキャンダル 全真相』(関美和、櫻井祐子訳、集英社)。無駄をそぎ取った歯切れのいい文章と、疾走感のある場面展開で、400ページを2日で読み終わった。
著者は、ウォール・ストリート・ジャーナル紙で調査報道を20年ほど続け、現在はフリーのジャーナリストであるジョン・キャリールー。本書は、同紙の記者だったときに、シリコンバレーのスタートアップ(ベンチャー企業)「セラノス」で起きていた不正を明るみに出したものだ。
新聞社のオーナー、マードックに訴えたが……
まず、本書が取り上げている事件の概要を紹介したい。
セラノスは2003年、スタンフォード大学の学生だったエリザベス・ホームズのアイデアから始まった。患者が強いられる何通りもの検査を、1滴の血液を採るだけで行う検査機器を開発する、というものだ。
エリザベスは20代、大きな青い目が印象的な女性で、アップルの設立者スティーブ・ジョブスを意識していつも黒いハイネックを着ている。声は驚くほど低音だ。画期的なアイデアに彼女の風貌などもあって、投資会社が次々に投資を行っていく。
とはいえ、試作は困難を極めた。間もなく完成するはずが、実際は「中学生の工作のよう」で、不具合が多発。患者の負担を減らすため、という大義は徐々に薄れ、資金集めのための取り繕いに突っ走っていく。行われたのは明確な詐欺だ。
たとえば、投資家への資料には、でっち上げの収益見通しが示され、製薬会社への実演では、あらかじめ録画した成功場面の動画を見せていた。命にかかわるだけに悪質だ。不完全な機器を市場に出してしまえば、たとえば本来治療が必要な人に対して、「異常なし」と判断してしまうこともありえる。

「セラノス」の創業者エリザベス・ホームズ Debby Wong/Shutterstock.com
雑誌「TIME」の表紙をエリザベスが飾ったのを皮切りに、セラノスの評価はさらに上がり、会社の要職には元国務長官のキッシンジャーや海兵隊の参謀マティス(元国防長官)などが名を連ねるように。お墨付きを得て、さらに資金が集まっていく。
あるとき、著者は知人からの紹介で、セラノスを退職した元社員と会う。そしてそこから怒涛の取材を重ねていく。セラノス側からはさまざまな妨害工作を受けたが、2015年10月15日の紙面に掲載された。見出しは「もてはやされたスタートアップの行き詰まり」。記事がきっかけで、その後セラノスは転落を余儀なくされる──。

2018年9月に解散した「セラノス」の旧本社社屋=カリフォルニア州パロアルト Michael Vi/Shutterstock.com
なぜ中身が不十分な会社がこれほどまでに評価されたのか、事件としても興味深いのだが、私が一番印象に残ったのは別のところだ。記者が世の中を揺るがすような情報をつかんだとき、新聞に書けるのかという点だ。
著者は冒頭にも述べたように、ウォール・ストリート・ジャーナル紙の記者であり、同紙のオーナーはルパード・マードックである(正確には同紙の親会社の所有者)。そのマードックは、セラノス最大の投資家だった。
オーナーが巨額の投資を行っている会社の不祥事を書くのか。実際、セラノス側はそこを突き、エリザベスは計4度、マードックに直接会って訴えた。キャリールー記者が追っている事実は間違いで、記事が表に出ればウォール・ストリートは恥をかくし、セラノスは大きな痛手を受ける、と。しかしマードックは取り合わなかった。そして記事は掲載された。
私は考えた。もし、日本で同じことが起きたらどうなっていただろう。オーナーや社長に不都合な事実を書けるだろうか。記者は書いても、会社としてGOサインを出せるのか?