見えない未来に目をこらし、学校という居場所を思う
2021年06月29日
昨年春からのコロナ禍の中で、高校演劇がどのような道をたどっているかをつづる連載の2回目。今回と次回は、工藤千夏さんが、高校生たちが世界や社会をどうとらえ、舞台の上で表現しているのかを考えます。
1回目はこちら。
高校演劇と聞けば、高校生の友情や恋愛を熱く描く学園もの、ギャグやアニメへのオマージュが散りばめられたライト・コメディを思い浮かべる向きも多いだろう。
だが、「高校演劇=青春ドラマ」というのは誤解である。
高校生は、大人が思う以上に冷静な大人だ。「いじめ」「ネグレクト」「貧困」「不況」「ハラスメント」「家庭内暴力」「原発問題」「差別」、そして、「新型コロナウィルス」……。高校生のアンテナは、さまざまな社会問題をキャッチしている。熱い演技で若さなど表現しなくても、それらを高校生がどうとらえ、どう描くかという試みは、どれも「高校演劇」なのである。
2021年3月末に北九州市で開催された「春フェス」では、参加した10作品中、実に7作品が新型コロナウィルスをモチーフに選んだ創作戯曲だった。
私が2020年度に観劇した高校演劇の本数は70本ほどと例年に比べて少なかったが、なんとか観ることができた各地の大会で、数多くのコロナの時代ゆえに生まれた作品に出会った。
高校演劇があぶり出したコロナ禍を考えてみたいと思う。
この原稿の〈1〉だけでも、私はなんど「中止」という単語を書いたことだろう。
卒業式も、入学式も、修学旅行も、文化祭も、学校生活を彩るありとあらゆる行事がほぼすべて「中止」だった2020年度。自分たちが出場するはずだった大会もまた「中止」の憂き目に合いそうな状態の中で、演劇部員たちが真っ先に考えるのは、「中止」という理不尽な命令に抗議したい気持ちを表現することである。
『全部コロナのせい!!』(青森県立木造高校、顧問創作:川村香奈子)は、タイトルもそのものズバリ。新型コロナウィルスが、高校生活、それも大都市ほど感染者が多くない地方都市に及ぼす影響や風評を、ストレートに描いた作品だ。
20年12月、参加校と関係者のみが入場できる東北大会(会場・岩手県北上市文化交流センターさくらホール)で観劇したのだが、幕が降りた瞬間の客席のどよめきは、世界中が実感しているコロナへの恐怖そのもの。いつ誰がかかってもおかしくない、明日は我が身。アンハッピー・エンドの見事などんでん返しは強烈だった。
◇ ◇ ◇
『20205678』(島根県立横田高校、顧問創作:伊藤靖之)は、「文字箱」という大量のダンボール箱で作った劇中劇の小道具が、地方の高校の演劇部が表現の抑圧にどう抗うかを描く上で、大きな役割を果たす。
もともと、舞台上での発声を禁止された文化祭での上演のために創作した短編を60分に発展させた話であると、作者である顧問にうかがった。「自粛」「不要」「県内」「軽率」「感染」……キーワードが描かれた文字箱をマスク姿の少女たちが放り投げ、蹴り倒すアクション、その無言の怒りの強さたるや。演劇部部長が県外から来ている寮生であるという設定や、セリフのないテニスと剣道の素振りのシーンが、コロナ差別を描く上でも効いていた。
現在進行形で変わり続けるコロナの状況を60分の演劇作品にどう落とし込むか、どのように普遍にいたらしめるか。
その問いに、『お楽しみは、いつからだ』(北海道富良野高校演劇同好会、生徒創作:富良野高校演劇同好会)は、劇の舞台を「2020年4月」とすることで、一つの回答を提示した。
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