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小林‐亜星‐貫太郎──戦後昭和に愛された男

菊地史彦 ケイズワーク代表取締役、東京経済大学大学院(コミュニケーション研究科)講師

呪文を唱えるソングライター

 小林亜星が5月30日に亡くなった。享年88。生涯6000曲以上の作品を残した作曲家であり、俳優やタレントとしてもよく知られた人物だった。ある年齢以上の方なら、巨体とおにぎり頭の風貌を他の人と見間違えることはなかった。

 学生時代からジャズバンドを組んでいた亜星青年は、いったん製紙会社に就職するもさっさと見切って音楽の世界へ逆戻りする。産声を上げたばかりのテレビ業界に潜り込むや、たちまち売れっ子のアレンジャー・指揮者になった。

 ところが、しばらくすると疑念が湧く。「アレンジばかりやっていると、作曲が下手になるんじゃないか」(小林亜星『亜星流!──ちんどん商売ハンセイ記』、1996)。この道を捨てる決心をしたら、折よくレナウンからCMソングの仕事が舞い込む。こうして、名曲「ワンサカ娘」(詞・曲:小林亜星、1961)が生まれた。最初に歌ったのは、かまやつひろしというが、多くの人の印象に残ったのは弘田三枝子の歌である。

 私の記憶にあるのもミコちゃんの「ワンサカ娘」だ。1962(昭和37)年に「ヴァケーション」で一躍名を馳せた彼女は、この曲をまるで持ち歌のように歌っている。春のドライブウェイ、夏のプールサイド、秋のテニスコート、冬のロープウェイという季節ごとの若者風俗は、まるで「ヴァケーション」の本歌取りだが、弘田が歌えば何の違和感もなかった。

 ソングライター小林亜星の凄いところは、「オシャレでシックな」娘たちの出現を「ワンサカワンサ」という不思議な言葉でつかみ取ったところだ。高度成長の余禄が中流家庭の子女たちに及び、彼らはファッションを最重要の消費テーマと捉え始めていた。小林が曲に盛り込んだのは、そんな若年大衆層が街に繰り出す様子だった。

小林亜星さん=東京・赤坂、品田裕美撮影小林亜星さん(1932─2021)

 ジャズの素養のせいか、小林はこの後もスキャットふうの文句をいくつもの曲に織り込んだ。自身で作詞した「ドンドンディンドンシュビダドン(Don don din don shubi da don) 」(サントリーオールドのCMソング「夜がくる」)が秀逸だが、他にも「ボバンババンボンブンボバンバババ」(『狼少年ケン』の主題歌、詞:月丘貞夫)、「マハリクマハリタヤンバラヤンヤンヤン」(『魔法使いサリー』の主題歌、詞:山本清)など、意味と無意味の間をすり抜けるような詞が頻出する。

 小林の曲は、本質的にノベルティソング(一風変わった新奇な曲)である。彼は、テレビという媒体では、ポップソングはそういうものでなくてはならないと信じていた。明るくコミカルな色合いだけでなく、視聴者=消費者の記憶にひっかかるナンセンスな言葉(呪文のようなスキャット)も実に有効なファクターになる。

 彼が大量の曲を書きまくった理由もたぶんここにある。大量消費の時代には、無数の新しいモノやコトが現れた。その群れと伴走して、彼の多作は加速した。数多くの(商品や番組の)コマーシャルソングはそのまま新しいポップソングになった。小林亜星こそ、右肩上がりの消費社会におけるもっとも有能で幸福なソングライターだったかもしれない。

自立する女もまた艶歌を歌う

小林亜星さんの自宅で部屋。ここでピアノやハモンドオルガン、ビブラフォンを演奏し、レコードを聞き、洋酒を飲んだ=1973年、東京都世田谷区八幡山小林亜星さんの自宅で。この部屋でピアノやハモンドオルガン、ビブラフォンを演奏し、レコードを聞き、洋酒を飲んだ=1973年、東京都世田谷区八幡山

 ソングライター小林亜星の存在を世間に広く認知させたのは、1971(昭和46)年の「ピンポンパン体操」(歌:杉並児童合唱団・金森勢)と、1975(昭和50)年の「北の宿から」(歌:都はるみ)であろう。作詞はいずれも阿久悠。前者は累計で約260万枚のセールスを記録し、後者は第18回レコード大賞、第9回日本有線大賞、第7回日本歌謡大賞をトリプル受賞した。

 阿久は、まず体操の歌でノベルティソングの巨匠の胸を借り、次に都はるみという艶歌界のど真ん中にいた歌手の、新境地を開くプロジェクトのパートナーとして小林を選んだ。

 この曲を初めて聴いたとき、私は都はるみもフォークを始めたのかと思った。「です・ます」調の少し突き放すような歌い方は、艶歌の作法とは異なるものに聞こえたからだ。

 阿久は自著で、「〽女心の未練でしょう……であって、〽女心の未練でしょうか……ではないのである」と書き、「『か』が付くのと付かないのとでは、主人公の自立意識がまるで違ってくる。ともに未練を感じているという意味では同じなのだが、前者は誰かに向かって答えを求めているのであり、後者は自分自身が捨てきれない未練を、いくらか嫌がっている」(『愛すべき名歌たち──私的歌謡曲史』、1999)と“「か」抜き”の意図を解説している。

 阿久は、別れた男のセーターを編む行為や「死んでもいいですか」という呟きを、傷心の旅に出た「若い女性の儀式」や「ひとり芝居」と考えていた。つまりこれは、1970年代の若い女性たちが大挙して日本列島に繰り出した、あの「自分探し」の旅のワンシーンだったのだ(「ディスカバー・ジャパン」を仕掛けた電通のチームが、当初想定していたネーミングは「ディスカバー・マイセルフ」だった)。

阿久悠から届いた「北の宿から」の自筆原稿。下は小林亜星さんの鉛筆書きの楽譜阿久悠さんが書いた「北の宿から」の歌詞原稿。下は小林亜星さんの鉛筆書きの楽譜

 小林も阿久の意図に気付いていたようで、

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