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自立する女もまた艶歌を歌う

小林亜星さんの自宅で部屋。ここでピアノやハモンドオルガン、ビブラフォンを演奏し、レコードを聞き、洋酒を飲んだ=1973年、東京都世田谷区八幡山拡大小林亜星さんの自宅で。この部屋でピアノやハモンドオルガン、ビブラフォンを演奏し、レコードを聞き、洋酒を飲んだ=1973年、東京都世田谷区八幡山

 ソングライター小林亜星の存在を世間に広く認知させたのは、1971(昭和46)年の「ピンポンパン体操」(歌:杉並児童合唱団・金森勢)と、1975(昭和50)年の「北の宿から」(歌:都はるみ)であろう。作詞はいずれも阿久悠。前者は累計で約260万枚のセールスを記録し、後者は第18回レコード大賞、第9回日本有線大賞、第7回日本歌謡大賞をトリプル受賞した。

 阿久は、まず体操の歌でノベルティソングの巨匠の胸を借り、次に都はるみという艶歌界のど真ん中にいた歌手の、新境地を開くプロジェクトのパートナーとして小林を選んだ。

 この曲を初めて聴いたとき、私は都はるみもフォークを始めたのかと思った。「です・ます」調の少し突き放すような歌い方は、艶歌の作法とは異なるものに聞こえたからだ。

 阿久は自著で、「〽女心の未練でしょう……であって、〽女心の未練でしょうか……ではないのである」と書き、「『か』が付くのと付かないのとでは、主人公の自立意識がまるで違ってくる。ともに未練を感じているという意味では同じなのだが、前者は誰かに向かって答えを求めているのであり、後者は自分自身が捨てきれない未練を、いくらか嫌がっている」(『愛すべき名歌たち──私的歌謡曲史』、1999)と“「か」抜き”の意図を解説している。

 阿久は、別れた男のセーターを編む行為や「死んでもいいですか」という呟きを、傷心の旅に出た「若い女性の儀式」や「ひとり芝居」と考えていた。つまりこれは、1970年代の若い女性たちが大挙して日本列島に繰り出した、あの「自分探し」の旅のワンシーンだったのだ(「ディスカバー・ジャパン」を仕掛けた電通のチームが、当初想定していたネーミングは「ディスカバー・マイセルフ」だった)。

阿久悠から届いた「北の宿から」の自筆原稿。下は小林亜星さんの鉛筆書きの楽譜拡大阿久悠さんが書いた「北の宿から」の歌詞原稿。下は小林亜星さんの鉛筆書きの楽譜

 小林も阿久の意図に気付いていたようで、

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筆者

菊地史彦

菊地史彦(きくち・ふみひこ) ケイズワーク代表取締役、東京経済大学大学院(コミュニケーション研究科)講師

1952年、東京生まれ。76年、慶應義塾大学文学部卒業。同年、筑摩書房入社。89年、同社を退社。編集工学研究所などを経て、99年、ケイズワークを設立。企業の組織・コミュニケーション課題などのコンサルティングを行なうとともに、戦後史を中心に、<社会意識>の変容を考察している。現在、株式会社ケイズワーク代表取締役、東京経済大学大学院(コミュニケーション研究科)講師、国際大学グローバル・コミュニケーションセンター客員研究員。著書に『「若者」の時代』(トランスビュー、2015)、『「幸せ」の戦後史』(トランスビュー、2013)など。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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