2021年06月30日
2021年6月23日、最高裁は2015年に続いて、選択的夫婦別姓に関する2度目の憲法判断を行った。だがそれは、司法に求められる「抑制・均衡」check & balanceの使命を放棄し、かつ夫婦同姓・別姓問題を深めないままなされた、おざなりの判決にすぎなかった。
ただし「反対意見」には聞くべきものがあった。宮崎裕子他2人の裁判官が憲法第24条(後述)違反を問題化した。また三浦守裁判官は「意見」のなかで戸籍制度見直しの必要に言及した(朝日新聞6月24日付)。この両論点を掘り下げて、私なりに論じてみたい。
100年以上前の1913年(大正2年)のことである。京都で、ある男性が警官の職務質問を受けた。するとその人が「婦夫契約証書」なるものを持っていたことが分かり、これが当時新聞ざたになった。
「婦夫」という文字列もだが、さらに契約の署名欄に姓のない名前だけしか書かれていなかったこと(金造と道江)、そしてそもそも役所への届け出をせず、当事者だけの意思で結婚しようとしたことも、騒ぎに輪をかけたに違いない(清永孝『良妻賢母の誕生』ちくま新書、1995年、22頁以下)。
当時、結婚は「法律婚」しか認められず、しかもこれが「家制度」に結びつけられていた。
妻は、明治民法(1898年施行)によって「夫の家に入る」(同法788条)ものとされ、全て家族は「家の氏を称す(る)」よう強いられた(同746条)。「家」には、法で定められた戸主(妻にとってふつうは義父あるいは夫)がおり、妻を含む家族は戸主に従属する(同748-50条)。そして妻は夫に(も)従属する(同前788条)。
これらを無視して氏を明示せず、しかも「婦夫」などと記した先の男性の所業は、あるいは怒りをあるいは嘲笑を買ったようである。歴史的に見れば、江戸期はもちろん明治期にあってさえ、ことに農村では「事実婚」こそ当たり前だったのだが、すでに当時の人々は(少なくとも都市では)、婚姻を国家が管理する明治民法の呪縛下に置かれていたと判断される。
今日なら事実婚も決して不道徳とは見なされず法的にも保護されるが(ただし権利において制限がある)、そうした条件を欠いた当時にあっては、「契約証書」作成は彼らなりのぎりぎりの選択肢だったのであろう。なるほど平塚らいてうのように、おそらく証書がなくとも互いを尊重しえた場合もあったろうが(小林登美枝他編『平塚らいてう評論集』岩波文庫、56頁以下)、男性優位の当時の状況は一般にはそれを許さなかっただろう。
だから氏を無視して「婦夫」となろうとした2人の行為は、個人の幸福より父系原理による「家」の成立・存続を重視する家制度に対する、ささやかな抵抗だったと判断できる。
これは100年以上前の出来事だが、決して古びた昔話ではない。当時と異なり、今日、法律婚に対する制度的な権利保障は進んでいる。だが、結婚を望む当事者に国家が大きな制約を課している現実に変わりはない。その典型は、夫婦に対する同姓(*)の強制である。
(*) 正確には同氏。「氏」は歴史的に家族共通の呼称=家を示す記号と見なされ、そうした性格とは無縁な、他国人の「姓」とは区別される。
なるほど現在は、形式的に男女は平等である。民法は女性にその氏を捨てるよう求めていない。
だが実に96%が夫の氏を選ぶ(選ばざるをえない)のが現実である以上(厚生労働省「平成28 年度 人口動態統計特殊報告『婚姻に関する統計』の概況」、10頁)、日本国憲法が保障する、女性にとっての「個人の尊厳」も「両性の本質的平等」(第24条第2項)も、ただの理念に終わっている。社会慣習的な圧力は根強く、氏を通じて父系の存続を最重要視する明治民法の価値観が、今でも私たちをしばっている。
この社会慣習的な力は、漠たる観念体系(だが結婚の折りなどに現実の力を見せつけられる)であると同時に、ある形で制度化されている。それは「戸籍」制である。
戸籍とは何か。
ためしにそれがどう翻訳されているかを見てみるとよい。
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