鶴田智(つるた・さとし) 朝日新聞社財務本部グループ財務部主査
1984年朝日新聞社入社。地域面編集センター次長、CSR推進部企画委員、「声」欄デスク、校閲センター記者を務める。古典芸能にひかれ、歌舞伎はよく観劇、落語は面白そうだと思えばできるだけ見に行く。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
トーキョー落語かいわい【7】人情噺の最高潮で書き割りを背に見得を切る伝統芸の魅力
落語には芝居噺(しばいばなし)というジャンルがあります。主に人情噺のクライマックスで、座布団一枚の高座に書き割りの背景を立て、落語家が膝(ひざ)立ちになり見得(みえ)を切って演じて見せるなど、歌舞伎の場面のような派手な動きを見せる「寄席版ミニ歌舞伎」といった噺です。
今年3月、国立演芸場の名人会でベテランの噺家、林家正雀(しょうじゃく)が「鰍沢(かじかざわ)」を芝居噺で演じた際は、客席から盛んな拍手が送られました。歌舞伎も好きなファンにはうれしい芸です。幕末から明治にかけて活躍した、あの三遊亭円朝も見せていたという芝居噺は、正雀の師匠である先代の八代目林家正蔵(しょうぞう)、人呼んで「彦六の正蔵」ゆずりの芸です。
師匠から受け継いだこの芸の演じ手は、いま69歳の林家正雀以外にみられません。現代でただ一人の演じ手なのです。
コロナ禍が収まらず、寄席も一時休業を余儀なくされ、新真打ちのお披露目も延期になるご時世です。それでも、落語ファンはコロナの収束を待ちながら、辛抱を続けています。名人上手の落語を聞き、だれに遠慮することなく笑う。そんな日が再びくることを信じて、多くのファンは寄席を応援するクラウドファンディングにも参加しています。
今回は、ステイホームのお供に、なかなか見る機会のない芝居噺のお話を紹介します。
先代の林家正蔵、「彦六の正蔵」は1982年、86歳で亡くなりました。テレビの「笑点」に出演している林家木久扇や三遊亭好楽の師匠でもあります。
木久扇が、声を震わせながら「ばかやろう。早く食わねえからだ」などと声色の物まねをする落語家、といえば「ああ、あの」とうなずく人も多いでしょう。正蔵の名跡を晩年、故林家三平(先代)の家に返して林家彦六と名乗った「昭和の名人」の一人です。
人情噺、怪談噺の名手として知られ、また長屋暮らしでも有名で、住んでいた地名から稲荷町の師匠としてファンに親しまれました。住まいは地下鉄銀座線の稲荷町駅の近くでした。
「彦六の正蔵」が亡くなった時の朝日新聞の訃報記事(1982年1月30日朝刊)は、社会面に4段の大見出しを立て、写真付きで「怪談、反骨の長屋住まい 林家彦六師匠逝く」と伝えました。
記事には、彦六は「三遊亭円朝の芸風を伝え」「渋い語り口と律義な人柄で多くのファンをひきつけた」とあります。さらに、「芝居噺の正蔵」といわれたことに触れ「手ぬぐいと扇子だけの素ばなしとは違って、書き割りや鳴り物、後見を使って、幕切れが芝居がかる寄席版ミニ歌舞伎は、この人の専売特許だった」と記しています。
「寄席版ミニ歌舞伎」とも言える芝居噺。弟子の正雀はそれを受け継ぎました。
江戸、明治のころ、寄席で噺家が披露した芝居噺は人気を博しました。
「江戸時代、芝居といえば歌舞伎をさしていた」と物の本にあります。江戸三座と呼ばれた官許の劇場のほか、小さな芝居小屋がたくさんあったとか。「江戸時代後期の天保の改革以後、芝居が江戸の中心から離れた浅草観音裏の猿若三座に限られ、一般大衆が手軽に見物に行けなくなったこともあって……歌舞伎の雰囲気を持ち込んだ芝居噺は、いっそう人気を集めた」(世界大百科事典・平凡社)そうです。
2016年3月に東京・千代田区の国立演芸場で開かれた「芝居噺の会」の幕開けのトークで、正雀は「昔は電気がないから昼間しか芝居の興行がなかった」が、その一方で「寄席は夜」開かれたと説明。「芝居っぽいものを寄席で夜やるとお客が喜んだ」と話していました。
日中、人々は働いていて芝居を見に行きたくとも行けない。「それで道具をかざった芝居噺をやると芝居を見たような雰囲気になり、たいそうはやった」と。道具をかざるとは、高座に書き割りの背景を立てて芝居の舞台に見立てることです。
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