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「八街事件」は今後も起こる。運転者のミスは偶然ではなく必然である

自動車システムを根本的に問い直さなければ、子どもたちの命は守れない

杉田聡 帯広畜産大学名誉教授(哲学・思想史)

 千葉県八街(やちまた)市で、あまりにも痛ましい事件が起きた。いま日本社会は、これで泣いている。

児童たちが巻き込まれた現場に花束を供え、手を合わせる人たち=2021年6月29日午後3時41分、千葉県八街市八街20210629児童が巻き込まれた事件現場に花束を供え、手を合わせる人たち=2021年6月29日、千葉県八街市八街

劣悪な道路事情

 私はこの地名を聞いた時、かつての出来事を思い出した。

 同市で起きた自動車死亡事故(死者は幼児)の現場検証を依頼されたことがある。現場は住宅地の袋小路であり、死亡事故が起こるとはとうてい信じられない場所だったが(杉田『道路行政失敗の本質──〈官僚不作為〉は何をもたらしたか』平凡社新書、146-7頁)、同時に信じられないという思いを抱いたのは、そこから一歩出て一般道を歩いた時のことだ。

 道は狭く、歩道も中央線も路側帯もないのに、ひっきりなしに車が走ってくる。しかもかなりの速度で、である。私は車列が前方からなら道の左側に、後ろからなら右側に避難したが、前後双方から車が来たときは道路わきの空き地などに飛び降りた。空き地がない場所では、次の空き地まで走った。それでもあまりに危険なので、折よく来た最寄り駅行きのバスに乗った。

 私はバスに乗れたからいいが、小学生にはそれもできないだろう。「八街事件」(*)の報道を見るかぎり、私が歩いた道と本質的に変わらない道を子どもが日々に歩かされ、そして残酷にも2人の幼い子どもの命が絶たれた。重傷を負った3人は、生涯にわたる後遺症を背負うかもしれない。

 だが以上の道路状況は、八街市の場合にかぎらない。私の経験から言えば、他都市もこれより良いと言えないことも多い。
(*) 事故は「思いがけず生じた悪い出来事」の意であり(『広辞苑』)、accidentは明確に「偶然」をも意味するが、自動車事故は自動車の固有のシステムからほとんど必然的に起こるのである(後述)。

運転者の行動様式

 いま、圧倒的に多くの「大人」たちが車を運転する。すると運転者の立場で物を考えるのが習い性となり、自らの行為が歩行者にどんな効果・影響を及ぼすかについて、ほとんど自覚できなくなる。八街市の狭い道路に車を走らせる運転者も、皆そうであろう。自らが引き起こしうる効果・影響は人を死傷させることだったとしても、日常的にほとんど痛痒(つうよう)を感じなくなる。

 直ちにつけ加えるが、歩行者の命を配慮して減速する運転者もいる。信号のない横断歩道を渡ろうとする人がいれば、手前で止まる運転者もいる。だがそうした殊勝な運転者は少ない。車列ができていればやむを得ないとしても、そうでなかった場合でも、事情はほぼ同じである。

問われるべきは自動車システムそれ自体である

トラックが児童の列に突っ込んだ現場。右上にはランドセルが見える=2021年6月28日午後5時13分、千葉県八街市八街、朝日新聞社ヘリから、20210628トラックが児童の列に突っ込んだ現場=2021年6月28日、千葉県八街市八街

 今回の「八街事件」では酒に酔った運転者が子どもの列に突っ込んだが、酒など飲まない運転者も前後に何十、何百といたことだろう。だが彼らの運転も、同じ道を行く子どもたちにとって、命に対する脅威となっていたという事実は変わらない。

 そして、車を運転する大人たちの行為の集積が、他の大人たちの運転を呼び、それを合理化する。そのようにして日常空間におびただしい車が走るようになれば、誰も自らの運転に疑いをもたなくなる。それどころか運転は、実に8000万人以上が免許をもつ、当たり前の気楽な行為となる。すると、わずかとはいえある割合で飲酒後にハンドルを手にする運転者が出るのは、不可避である。

 だが自動車「事故」の本質的要因は飲酒ではない。飲酒が「事故」を誘発するのは確かであり、その意味でもくり返し論じるべきだが、問題はより根本的に問わなければならない。そうでなければ、「八街事件」に類する劣悪な道路事情下での陰惨な事件も、この数年たて続けに起きた、各種事情に起因する事件(「自動車「事故」続出、実現していない人と車の分離」)も決してなくならず、子どもの命を守り切ることはできないだろう。

 どんなに迂遠に思われようと、問われるべきは自動車システムそのものである。

レールを欠く不安定な道具

 自動車システムはそれ自体に問題をはらむ。

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