前田和男(まえだ・かずお) 翻訳家・ノンフィクション作家
1947年生まれ。東京大学農学部卒。翻訳家・ノンフィクション作家。著作に『選挙参謀』(太田出版)『民主党政権への伏流』(ポット出版)『男はなぜ化粧をしたがるのか』(集英社新書)『足元の革命』(新潮新書)、訳書にI・ベルイマン『ある結婚の風景』(ヘラルド出版)T・イーグルトン『悪とはなにか』(ビジネス社)など多数。路上観察学会事務局をつとめる。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
【39】ベートーベン「よろこびの歌」、「船頭小唄」
それでは、パンデミックと歌をテーマにした「三題噺」のお題を、一つ目の「イヤホン」から二つ目の「第九」へ転じるとしよう。
イヤホンと第九と船頭小唄 その1
歌:交響曲第九番「よろこびの歌」
作曲:ベートーベン、作詞:岩佐東一郎他
場所:徳島県鳴門市
歌:「船頭小唄」
作曲:中山晋平、作詞:野口雨情
場所:茨城県潮来
時:1921年
私は、かねてから日本人の「第九」好きについて疑念をいだいており、それをたしかめるべく、10年ほど前に「第九の日本初演の地」とされる、徳島県は鳴門市にある第一次世界大戦時のドイツ人俘虜収容所跡を訪ねたことがあった。
残念ながら、そのときは資料館の展示から私の疑念を晴らす「証拠」をみつけることはできなかったが、今年になって、皮肉なことにコロナがそれをもたらしてくれた。本年1月、同館で、百年前に当地のドイツ人俘虜収容所を襲ったスペイン風邪をテーマにした特別展示が企画されたのである。その一部をネットで確認すると、「第九初演」の背景には百年前に世界を襲ったパンデミックが関わっていたらしいと知り、長年来の疑念をようやく解くことができた。さらに調べてみると、コロナ禍がきっかけとなって、ほかにも、これまで眠っていた関連資料の発掘があり、それらを含めた「新証拠資料」に拠りながら検証を進めるとしよう。
そもそもなぜ百年前にスペイン風邪という世界的疫病の大流行時に、極東の島国にドイツ人俘虜収容所があったのか。
1914年、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、イタリアの「三国同盟」と、フランス、ロシア、イギリスの「三国通商」の両陣営が激突した第一次世界大戦が勃発すると、イギリスと同盟を結んでいた日本はドイツに宣戦布告、ヨーロッパが主戦場で〝空き家〟状態にあったドイツ軍の極東の拠点、中国の青島を占領、わずか3カ月でドイツ軍を降伏させた。〝漁夫の利〟ともいうべき戦勝であったが、その結果、4600人を超えるドイツ兵捕虜を引き受けることになった。
これは敵の虜囚となるよりも死を選ぶのが暗黙の軍律であった日本からすると想定外の数であり、日本各地の公民館や寺などが仮の収容所とされたが、国際法に抵触しかねない不当な扱いだとの訴えがドイツ兵捕虜から相次ぎ、急遽、ドイツ人捕虜収容所が全国12カ所につくられ、その一つが徳島県は鳴門市の「板東俘虜収容所」であった。1917年春のことである。
そこでは、所長の松江豊寿の人道的なはからいから、ドイツ人捕虜たちに音楽を存分に楽しめる環境があたえられ、その成果が、スペイン風邪の流行が日本でも始まった翌1918年6月、本邦初の「第九」の合唱付き全曲演奏であったとされている。このエピソードは、敵国の捕虜との音楽を通じた人間的交流の「美談」として語り継がれ、映画化もされた(出目昌伸監督『バルトの楽園』2006年)。
論座ではこんな記事も人気です。もう読みましたか?