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世界が震える芝居

 李麗仙が6月22日に亡くなった。享年79。唐十郎の主宰した状況劇場の大看板であり、1960~70年代の演劇運動を語る上で、忘れることのできない女優である。

 私が李礼仙(後に李麗仙に改名)を見たのは、紅テント=状況劇場が巷に名を馳せてからだいぶあとのことだ。演目は、あの『唐版 風の又三郎』。1974年の晩秋、慶應義塾大学の三田祭の一夜だった。

 複雑に入り組んだ物語で、李はエリカという「流れ女」を演じる。相方を務める織部(根津甚八)は、男装のエリカを空想上の友、風の又三郎と思い込む。織部の想念に従って又三郎を装うエリカだが、彼女の本当の目的は、かつて心を通わせた自衛隊員、高田三郎の屍肉を見つけ出すことにある。その男は1973年、宇都宮航空自衛隊基地を飛び立って姿を消した実際の自衛官に由来する役柄である(高田三郎とは宮沢賢治の原作では又三郎の本名)。

 エリカ・織部・高田三者の虚実ないまぜの恋物語を軸に、宮沢賢治の表題作、オルフェウスとエウリュディケの神話、『ヴェニスの商人』、さらに南昌爆撃から片翼で帰還した樫村寛一三等兵曹の軍神譚などが、連想のようにつながり万華鏡に似た世界をつくりだす。私は、唐流の夢幻的劇空間に打ちのめされてしまった。

 新宿・花園神社の伝説的なテント芝居は見逃したが、『唐版 風の又三郎』に間に合ったのは幸運だったと思う。なぜなら、1972年の『二都物語』から『唐版 風の又三郎』への3年間は、状況劇場と李礼仙が第2のピークを成した時期であったからだ。

 李はその頃のことを次のように語っていた。

 「私が『二都物語』で、この感覚じゃないかって、つかめたものがあるんです。これを逃したらいけないと、秋公演の『鐵仮面』、翌年の『ベンガルの虎』、そして翌々年の唐版『風の又三郎』と連続三年間、この感覚をギュッと摑んで離さなかった。今でもね。いや、具体的な演技がどうこうってことじゃない。もっと女優としての動物的な嗅覚の問題というか、役者の皮膚呼吸の感覚というか……芝居のいろんなこと一切を含めて、ようやく一段上に昇りつめた、やっと昇れたという感覚」(鶴木遵『李麗仙という名の女優』、2000)

 四谷シモンと麿赤兒の退団(1970~71年)後の危機を、唐は新たな趣向の劇作で、李は新人の根津甚八や小林薫とのハイテンションなコンビで乗り切った。

状況劇場が1973年に上演した「海の牙」。(手前左から)李麗仙と根津甚八拡大状況劇場が上演した「海の牙」。左が李麗仙、前列右は根津甚八=1973年

 そしてこのピークは、数年にわたってプラトー(高地)を形成する。1975年は、『腰巻おぼろ──妖鯨篇』と『糸姫』。1976年は、『下谷万年町物語』の先駆けとなる『下町ホフマン』と『おちょこの傘持つメリー・ポピンズ』。1977年には、小林薫の爆発的な進化を印象付けた『蛇姫様──我が心の奈落』があった。


筆者

菊地史彦

菊地史彦(きくち・ふみひこ) ケイズワーク代表取締役、東京経済大学大学院(コミュニケーション研究科)講師

1952年、東京生まれ。76年、慶應義塾大学文学部卒業。同年、筑摩書房入社。89年、同社を退社。編集工学研究所などを経て、99年、ケイズワークを設立。企業の組織・コミュニケーション課題などのコンサルティングを行なうとともに、戦後史を中心に、<社会意識>の変容を考察している。現在、株式会社ケイズワーク代表取締役、東京経済大学大学院(コミュニケーション研究科)講師、国際大学グローバル・コミュニケーションセンター客員研究員。著書に『「若者」の時代』(トランスビュー、2015)、『「幸せ」の戦後史』(トランスビュー、2013)など。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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