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星山初子から李礼仙へ

李麗仙=1975年拡大李麗仙=1975年
 李初子(李麗仙の出生時の本名)は、1942年、日本で生まれた。父は李鉄柱(チョルジュ)、母は吉仙(オルソン)。父母たちは、それぞれの親に連れられて昭和初頭に朝鮮半島から日本へ渡ってきた。彼らは各々の事情を抱え、植民地朝鮮での苦しい生活を逃れるために、日本へやってきたのだろうが、この国の人々の対応は決して融和的なものではなかった。

 李一家は、戦後星山姓を名乗った。四谷第六小学校から四谷第一中学校へ進学した初子も、あえて「李」の姓を表に出すことはなかったし、韓国人として差別された経験もほとんどない。ただ一家の歴史は平坦ではなかった。事業に失敗した父に代わって、母は6人の子どもたちを育てるために懸命に働いた。

 初子は中学で演劇部に入り、児童劇団にも籍を置き、都立広尾高校へ進学する。ここでも演劇部への入部は自然な選択だった。三好十郎の『獅子』では、老母を演じて手応えを得た。職業として演劇をやりたいと思ったのはこの頃である。高校を卒業すると、喫茶店で働きながら舞台芸術学院の夜間部に通うようになった。安保闘争の年、1960年である。

 初子が大鶴義英(唐十郎の本名)に出会ったのは、その3年後のことだ。

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筆者

菊地史彦

菊地史彦(きくち・ふみひこ) ケイズワーク代表取締役、東京経済大学大学院(コミュニケーション研究科)講師

1952年、東京生まれ。76年、慶應義塾大学文学部卒業。同年、筑摩書房入社。89年、同社を退社。編集工学研究所などを経て、99年、ケイズワークを設立。企業の組織・コミュニケーション課題などのコンサルティングを行なうとともに、戦後史を中心に、<社会意識>の変容を考察している。現在、株式会社ケイズワーク代表取締役、東京経済大学大学院(コミュニケーション研究科)講師、国際大学グローバル・コミュニケーションセンター客員研究員。著書に『「若者」の時代』(トランスビュー、2015)、『「幸せ」の戦後史』(トランスビュー、2013)など。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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