2021年07月16日
日本での知名度は高くないが、現代アメリカ映画の最重要作家の一人であるケリー・ライカート(1964~)。このたび彼女の初期4作品が東京のシアター・イメージフォーラムなどで特集上映される。映画ファンなら絶対に見逃せないラインナップだが、今回は、これまでのところライカートの最高傑作であろう『ウェンディ&ルーシー』(2008)を紹介する。また他の3作品についても短くコメントしたい(なおライカートは、以前「ライヒャルト」と表記されていたが、正しくは「ライカート」であることが本人によって確認された)。
つまり、序盤で姿を消したルーシーを探し求めるウェンディの道行きが、いくつかの小波乱をまじえて、ライカートの身上である抑制された静謐なタッチで──鮮明で的確なショットの連鎖とともに──描かれる点が、この映画のツボだ(とはいえ、終盤でのウェンディとルーシーの再会シーンは涙なくしては観れないが)。
──職探しのため愛犬ルーシーを連れてアラスカに向かうウェンディ。彼女はオレゴンの工場地帯の小さな田舎町に辿り着くが、そこで車が故障してしまう。ほぼ一文無しのウェンディは底をついたルーシーのためのドッグフードを、食料品店で万引きするが店員に見つかり、留置所に拘留される。
やがて彼女は保釈金を払って町に戻るが、ルーシーの姿は消えていた。ウェンディはルーシーを探して町や郊外をさまよう。彼女の移動の範囲はごく狭いが、それでもその寄る辺なさゆえ、画面にはロードムービーの雰囲気が濃厚に漂う(大がかりな移動/旅が描かれない本作を反ロードムービーとする論評もあるが、やや穿ち過ぎではないか)。
ともあれ、状況や心理についての説明を大胆に省くライカートは、ガソリンスタンドのトイレで着替えるウェンディの姿や、無機的な駐車場、走行する貨物列車、閉鎖され廃墟化した工場、荒涼とした郊外の野原、雑木林、飼い主不明の犬たちの収容所、空き缶拾いで食いつなぐ人々や自虐的な言葉をつぶやくホームレス、あるいは親切な老警備員(ウォルター・ダルトン)などなどを、不即不離の絶妙な距離感でとらえていく。
しかも、そうしたアメリカの“取り残された人々”、“持たざる人々”を点描していく本作には、ミニマリズム系の自主映画にありがちな、自己満足的な長回しの単調さや、告発調の社会派的メッセージは皆無だ。むろん長回しは多用されるが、それ一辺倒にならずに、時間を巧みに切断するカット割り/編集が、長回しとバランスよく共存している。
不況下のアメリカの荒(すさ)んだ社会的状況にしても、
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