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必見!  ケリー・ライカート特集──傑作『ウェンディ&ルーシー』など

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

“取り残された人々”と“現代アメリカの歪み”

7月17日(土)より、シアター・イメージフォーラムほか全国順次開催拡大『ウェンディ&ルーシー』 ©2008 Field Guide Films LLC 特集上映「ケリー・ライカートの映画たち 漂流のアメリカ」は、7月17日(土)よりシアター・イメージフォーラム(東京)ほか全国順次開催
 『ウェンディ&ルーシー』は、タイトルどおり、若い女性ウェンディ(ミシェル・ウィリアムズ)とその愛犬ルーシーをめぐる映画だ。しかし、ウェンディとルーシーの交感にのみ焦点をあてる、感傷的な“動物メロドラマ”ではない。映画の重心はむしろ、ルーシーの不在にある。

 つまり、序盤で姿を消したルーシーを探し求めるウェンディの道行きが、いくつかの小波乱をまじえて、ライカートの身上である抑制された静謐なタッチで──鮮明で的確なショットの連鎖とともに──描かれる点が、この映画のツボだ(とはいえ、終盤でのウェンディとルーシーの再会シーンは涙なくしては観れないが)。

──職探しのため愛犬ルーシーを連れてアラスカに向かうウェンディ。彼女はオレゴンの工場地帯の小さな田舎町に辿り着くが、そこで車が故障してしまう。ほぼ一文無しのウェンディは底をついたルーシーのためのドッグフードを、食料品店で万引きするが店員に見つかり、留置所に拘留される。

 やがて彼女は保釈金を払って町に戻るが、ルーシーの姿は消えていた。ウェンディはルーシーを探して町や郊外をさまよう。彼女の移動の範囲はごく狭いが、それでもその寄る辺なさゆえ、画面にはロードムービーの雰囲気が濃厚に漂う(大がかりな移動/旅が描かれない本作を反ロードムービーとする論評もあるが、やや穿ち過ぎではないか)。

 ともあれ、状況や心理についての説明を大胆に省くライカートは、ガソリンスタンドのトイレで着替えるウェンディの姿や、無機的な駐車場、走行する貨物列車、閉鎖され廃墟化した工場、荒涼とした郊外の野原、雑木林、飼い主不明の犬たちの収容所、空き缶拾いで食いつなぐ人々や自虐的な言葉をつぶやくホームレス、あるいは親切な老警備員(ウォルター・ダルトン)などなどを、不即不離の絶妙な距離感でとらえていく。

 しかも、そうしたアメリカの“取り残された人々”、“持たざる人々”を点描していく本作には、ミニマリズム系の自主映画にありがちな、自己満足的な長回しの単調さや、告発調の社会派的メッセージは皆無だ。むろん長回しは多用されるが、それ一辺倒にならずに、時間を巧みに切断するカット割り/編集が、長回しとバランスよく共存している。

『ウェンディ&ルーシー』 ©2008 Field Guide Films LLC拡大『ウェンディ&ルーシー』 ©2008 Field Guide Films LLC

 不況下のアメリカの荒(すさ)んだ社会的状況にしても、

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筆者

藤崎康

藤崎康(ふじさき・こう) 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

東京都生まれ。映画評論家、文芸評論家。1983年、慶応義塾大学フランス文学科大学院博士課程修了。著書に『戦争の映画史――恐怖と快楽のフィルム学』(朝日選書)など。現在『クロード・シャブロル論』(仮題)を準備中。熱狂的なスロージョガ―、かつ草テニスプレーヤー。わが人生のべスト3(順不同)は邦画が、山中貞雄『丹下左膳余話 百万両の壺』、江崎実生『逢いたくて逢いたくて』、黒沢清『叫』、洋画がジョン・フォード『長い灰色の線』、クロード・シャブロル『野獣死すべし』、シルベスター・スタローン『ランボー 最後の戦場』(いずれも順不同)

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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