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「八街事件」をめぐって~車利用者とメーカーは「社会的費用」を払うべきだ

杉田聡 帯広畜産大学名誉教授(哲学・思想史)

 「八街(やちまた)事件」が起きてから、政府の反応は機敏だった。文科相が通学中の事故防止策の検討を表明したのみならず、首相が現場を訪れて献花し、八街市長の要請に対して歩道設置への全面協力を約束した(朝日新聞2021年7月2日付)。

事故現場の献花台に花を手向ける菅義偉首相(手前)。左は八街市の北村新司市長=2021年7月1日午後2時8分、千葉県八街市、代表撮影 2021年7月1日児童5人が死傷した千葉県八街市の事故現場に花を手向ける菅義偉首相=2021年7月1日、代表撮影

 それ自体は重要である。だが、問題を八街のあの通学路あるいは通学路一般に限定してしまうとしたら、今回の被害者を含め、これまで数十年にわたり、おびただしい数の自動車死亡「事故」で命を奪われた子どもたちに申し訳が立たない、と私は思う。

求められる根本的な問い直し

 私は前稿(7月5日付)で、「自動車システムを根本的に問い直す」のでなければ、子どもたちの命は守れない、と主張した。

 いかに迂遠に思われようとそれが不可欠だが、問い直されるべきは、人と車が同一平面を利用させられているという事実である。これを解消するために求められる政策については、2019年、悲惨な「事故」が立て続けに起きた時に論じた(「「横断車道」、車遮断機…過剰な車社会の改善策」;ただし一連の事故の特性ゆえに私の提案も限定されている)。

 だが、そこでもあるていど論じたが、これらの対策を実施できたとしても、それだけでは不十分である。自動車システムを是とする、時代の無分別な了解(これは近代の理念に反する)について、根本的な反省が加えられるのでなければならない。

第三者の生活はむしろ壊される

 この社会は、そうした反省の姿勢を見せることはない。車の利用は、もはや何ら疑われないまま「常識」化しているが、それをむしろ最大限合理化して見せるのは新車広告である。

 あるメーカーの広告には、こう書かれている。「エモーショナルな佇まいと先進の装備が、毎日を鮮やかに彩る」。そして、新車のわきに何気なく立つ女性の表情は穏やかで幸福感に満ちている。この女性に自己を重ねる女性にとって、あるいはこの女性に自らの恋人等を重ねあわせる男性にとって、この車によって穏やかで鮮やかに彩られた日々が得られる、とでも言いたげである。

 だが仮に実際そうだったとしても、その車が走れば、同じ日常空間を行き来しそこで生きる歩行者、とくに子ども・高齢者は、むしろ穏やかな生活を奪われ、彩りどころか緊張感に満ちた不安な時間をすごさざるを得なくなるのではないか。

高齢者と子ども──車は最も危険な存在である

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 例えば高齢者となった私にとって、日々道を歩いていて、何が怖いと言って車ほど怖いものはない。車は右からも左からも、前からも後ろからも、ひっきりなしに近づいてくる。しかも巨大な運動エネルギーを放出しながらである。だから、私あるいは運転者に一挙一動の誤りが生じれば、私はたちどころに死に瀕する。負傷ですんだとしても、高齢者にとってそれはしばしば近未来の死を予告されたに等しい。これが今日の日常空間の現実である。

 それでも私が若ければ、とっさの異変に対処しうるかもしれないが、齢を増せば増すほどそれは困難になる。人は、

(ア)知覚機能(視力・聴力・皮膚振動覚等)によって状況を認知し、
(イ)精神機能(記憶力・学習能力・判断力等)によってこれを解釈し、
(ウ)運動機能(全身跳躍反応・瞬発反応等)によってこれに対処する。

 だが歳をとればとるほど、いずれの機能も低下する。特に知覚機能の低下はいちじるしい(杉田『道路行政失敗の本質──〈官僚不作為〉は何をもたらしたか』平凡社新書、168頁)。その影響は他の機能の発動を遅らせる。

 そうした現実を生きる高齢者にとって、そしてもちろん、以上の能力・機能がまだ十分に発達しない子どもにとって、自動車は他に比較するものもないほどに恐るべき存在である。

 だが、

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