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時代と格闘した20世紀の歴史家・ホブズボーム~巧みな語り口で膨大な著作

評伝『エリック・ホブズボーム――歴史の中の人生』でたどる起伏と矛盾に富んだ生き様

三浦俊章 ジャーナリスト

 世界的ベストセラー『20世紀の歴史 両極端の時代』で知られるエリック・ホブズボーム(1917年~2012年)は、著書が数十か国語に翻訳されている現代の代表的歴史家だ。ユダヤ人の家庭に生まれ、ベルリンで思春期を送ったホブズボームは、10代で共産主義者となった。ヒトラーが政権を取るとイギリスに移り、ケンブリッジ大学で歴史を専攻した。晩年まで若き日の信条を捨てることはなかったが、政治史、経済史、思想史を統合した彼の通史は、保守派からも高く評価された。戦闘的でありながら友情にあつく、膨大な著作を残しながらジャズの評論家でもあった。
 そんなホブズボームの多面的な生涯を、専門を同じくする歴史家リチャード・J・エヴァンズが、日記・書簡、イギリス情報部の監視記録などをもとに描ききった評伝『エリック・ホブズボーム――歴史の中の人生』を道しるべに、時代と格闘した歴史家ホブズボームの人生を追ってみよう。

拡大20世紀を代表する歴史家の評伝。『エリック・ホブズボーム 歴史の中の人生』(岩波書店)

両親と死別。共産主義に救いを見いだす

 エリック・ホブズボームは1917年、ロシア革命の年にエジプトのアレクサンドリアで生まれた。父親はユダヤ系のイギリス人職人で、エジプトに出稼ぎに来ていた。母親はウィーンのユダヤ人宝石商の娘で、休暇でこの地を訪れていたときに、エリックの父と出会い、二人は恋に落ちた。

 第1次世界大戦後に一家はウィーンに移り住む。だが、父親は商売に失敗して失意のうちに亡くなり、母親もほどなく結核で世を去った。14歳のエリックは、妹と共に孤児となり、ベルリンに住む叔父に引き取られた。少年時代に味わったこの貧乏と喪失感が、歴史家ホブズボームをかたちづくった。

 当時のベルリンはワイマール共和国の爛熟期である。大不況下で政治の嵐が吹き荒れ、ナチスと共産党が街頭で激しく激突していた。そういう政治的雰囲気の中でホブズボームは共産主義にひきつけられていった。

 自分の貧困をひどく恥じていたホブズボームは、共産主義に救いを見いだした。なぜなら、「共産主義者になるということは、貧困に当惑を感じるのでなく、貧困を積極的な価値として受け入れることを意味した」(上巻、30頁)からである。実際の政治運動も魅力的だった。「歌やシュプレヒコール、共産主義者のデモは、強い陶酔感すら覚えさせるアイデンティティ感覚をもたらした」(同、33頁)。

ケンブリッジ大学の「何でも知っている新入生」

拡大ユダヤ人大量虐殺の現場アウシュビッツ収容所跡=1994年
 1933年にヒトラーが政権を掌握した後、ホブズボームの叔父は一家でロンドンに引っ越した。これは財政的な事情のためだった。一家はもともとイギリス国籍を持つユダヤ人であり、政治的亡命ではなかったのだが、結果的に、ナチスの迫害を恐れて国外に脱出した多くの中欧の知識人の流れに加わった。

 ロンドンで高校に入ったホブズボームはおそるべき神童ぶりを発揮する。1936年にケンブリッジ大学に入学するまでに、すでに英語、ドイツ語、フランス語とラテン語で膨大な量の本、それもフィクションや詩を読んでいた。ケンブリッジ大学では「何でも知っている新入生」として名をはせ、哲学者のラッセル、経済学者のケインズ、小説家のE・M・フォスターらが名を連ねた秘密エリート結社「使徒会」のメンバーに推薦された。歴史学を専攻して最優等で卒業する。

 しかし、共産主義者ホブズボームの前途は厳しかった。イギリス情報部がホブズボームをマークし始めていた。

拡大20世紀を揺さぶったナチスの政治宣伝。1936年のベルリン五輪。(朝日新聞社保有)


筆者

三浦俊章

三浦俊章(みうら・としあき) ジャーナリスト

元朝日新聞記者。ワシントン特派員、テレビ朝日系列「報道ステーション」コメンテーター、日曜版GLOBE編集長、編集委員などを歴任。2022年に退社

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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