評伝『エリック・ホブズボーム――歴史の中の人生』でたどる起伏と矛盾に富んだ生き様
2021年07月18日
世界的ベストセラー『20世紀の歴史 両極端の時代』で知られるエリック・ホブズボーム(1917年~2012年)は、著書が数十か国語に翻訳されている現代の代表的歴史家だ。ユダヤ人の家庭に生まれ、ベルリンで思春期を送ったホブズボームは、10代で共産主義者となった。ヒトラーが政権を取るとイギリスに移り、ケンブリッジ大学で歴史を専攻した。晩年まで若き日の信条を捨てることはなかったが、政治史、経済史、思想史を統合した彼の通史は、保守派からも高く評価された。戦闘的でありながら友情にあつく、膨大な著作を残しながらジャズの評論家でもあった。
そんなホブズボームの多面的な生涯を、専門を同じくする歴史家リチャード・J・エヴァンズが、日記・書簡、イギリス情報部の監視記録などをもとに描ききった評伝『エリック・ホブズボーム――歴史の中の人生』を道しるべに、時代と格闘した歴史家ホブズボームの人生を追ってみよう。
エリック・ホブズボームは1917年、ロシア革命の年にエジプトのアレクサンドリアで生まれた。父親はユダヤ系のイギリス人職人で、エジプトに出稼ぎに来ていた。母親はウィーンのユダヤ人宝石商の娘で、休暇でこの地を訪れていたときに、エリックの父と出会い、二人は恋に落ちた。
第1次世界大戦後に一家はウィーンに移り住む。だが、父親は商売に失敗して失意のうちに亡くなり、母親もほどなく結核で世を去った。14歳のエリックは、妹と共に孤児となり、ベルリンに住む叔父に引き取られた。少年時代に味わったこの貧乏と喪失感が、歴史家ホブズボームをかたちづくった。
当時のベルリンはワイマール共和国の爛熟期である。大不況下で政治の嵐が吹き荒れ、ナチスと共産党が街頭で激しく激突していた。そういう政治的雰囲気の中でホブズボームは共産主義にひきつけられていった。
自分の貧困をひどく恥じていたホブズボームは、共産主義に救いを見いだした。なぜなら、「共産主義者になるということは、貧困に当惑を感じるのでなく、貧困を積極的な価値として受け入れることを意味した」(上巻、30頁)からである。実際の政治運動も魅力的だった。「歌やシュプレヒコール、共産主義者のデモは、強い陶酔感すら覚えさせるアイデンティティ感覚をもたらした」(同、33頁)。
ロンドンで高校に入ったホブズボームはおそるべき神童ぶりを発揮する。1936年にケンブリッジ大学に入学するまでに、すでに英語、ドイツ語、フランス語とラテン語で膨大な量の本、それもフィクションや詩を読んでいた。ケンブリッジ大学では「何でも知っている新入生」として名をはせ、哲学者のラッセル、経済学者のケインズ、小説家のE・M・フォスターらが名を連ねた秘密エリート結社「使徒会」のメンバーに推薦された。歴史学を専攻して最優等で卒業する。
しかし、共産主義者ホブズボームの前途は厳しかった。イギリス情報部がホブズボームをマークし始めていた。
ホブズボームはベルリンで政治運動の洗礼を受けて共産主義者になった。イギリスに移ってからもその政治信条を変えなかった。ケンブリッジ大学は共産主義のシンパが多く、「赤いケンブリッジ」とも言われ、一部にはソ連のためのスパイ活動に携わる者もいた。
大戦中にホブズボームはイギリス陸軍教育部隊に所属したが、自らが編集した壁新聞で、独ソ戦を戦う赤軍を支援するために、西ヨーロッパに第2戦線を開くことを繰り返し求めていた。その活動があまりにも党派的だとみなされ、イギリス情報部(M15)に目を付けられた。以後ホブズボームの言動は細かく観察されるようになる。
ホブズボームの共産主義は学問の世界にとどまったが、冷戦下のイギリスでは共産主義者の教職探しは困難を極めた。彼がようやく得たのは、ロンドン大学で定時制学生に向けに夜間クラスを開講するバーベック・コレッジの講師のポストだった。これが幸いした。
講義は夕方午後6時から9時までで、日中は執筆や調査にあてることができた。また、忙しい仕事を抱え、勉強からしばらく遠ざかっていた社会人の学生たちに講義することは、教養ある一般大衆向けの通史を後に書く格好の訓練となったのである。
ホブズボームの歴史書の魅力は叙述のおもしろさだと言われている。レベルを落とすことなく、読者が続きを読みたくなるような巧みな語りが特徴だ。作家の回想、軍隊に志願した若者の手紙、大戦中のレジスタンスの壁新聞の一節など、時代を活写するエピソードを豊富にまぶしてある。読者の興味を引き立てるこの手法は、定時制の教師の時代に養われたのだ。
ホブズボームは一般に、共産主義知識人として知られている。戦後イギリスで「共産党歴史家グループ」の論客として注目され、冷戦終結後にイギリス共産党が瓦解するまで党員であり続けた。
ただ、彼の名前を世界に知らしめた『革命の時代』『資本の時代』『帝国の時代』『両極端の時代』と連なる19・20世紀の4部作は(後の著作ほど顕著だが)、マルクス主義の唯物史観では書かれていない。
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