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非常事態と対峙する君子、佐々木蔵之介が演劇に

中国「清」の雍正帝に見るリーダー像【下】

阿部修英 テレビディレクター

 中国・清の第5代皇帝・雍正帝の治世から現代の危機に向き合うヒントを探る論考の後編です。赤字財政を建て直し、地方行政を充実させた雍正帝が取り組んだ、次の課題は――。前編はこちらです。

徹底的に議論、対立を乗り越える

 雍正帝が向き合った三つめの非常事態は「分断」だった。

 コロナ禍で欧米中心に広がった、アジア系市民へのいわれ無き嫌悪。日本でも入管施設でのむごい事件や、過剰なヘイトスピーチの問題が続発している。

雍正帝
 こうした民族、文化の違い、「分断」による対立、亀裂、不合理は、人類がずっと解決できずにきた課題だ。

 大清帝国でも、先に述べたように満族の支配に不満を抱く漢族がたくさんいた。そして雍正帝の時代に、ある事件が起きる。

 都・北京から離れた南部で、漢族の曾静という学者が、大清帝国の大軍を率いる漢族の将軍に、反乱を持ちかけたのだ。もともと漢族の富裕層が多く住む南部。もし反乱が起き、富裕層が支援すれば国は分断する。しかしこの将軍は忠義が厚かったのか、あるいは雍正帝の地方への鋭き「眼」を恐れたのか、曾静を逆に逮捕、死刑にすべきだと報告する。

 だがそれに対し雍正帝が行なったのは、ことを起こした学者の曾静を、徹底的に「論破」することだった。

重んじたのは、寛容さと威厳

 曾静が、自分たち漢族の王朝「明」を力で倒し国を奪った野蛮人、と、満族を糾弾すれば、歴史を紐解き、まず「明」を倒したのは満族ではなく、李自成という漢族の反乱軍であることを説明。その李自成を倒したものこそ満族であることから、「むしろ明のカタキを取ったのだ」と言って納得させる。

 さらに曾静が、明の時代のほうが国は安全で豊かだったはずだ、と言えば、地方官の報告により明確につかんでいた国の状況を示し、明の末期といまの自分の治世とでいかに財政や治安が改善したかを具体的に示す。

 追い詰められた曾静が「異民族になどこの偉大な中華は治められない!」とヤケになれば、中華の歴史上名君とされる舜王や周の文王が異民族出身であることを挙げ、「民族の違いではなく『徳』の違い、徳を持った王が導くことこそ中華の真の道では」と説いてグウの音も出なくさせる。

 差別意識を根こそぎ奪われた曾静に対し、トドメは彼を「無罪」とすること。大清帝国の定法では差別主義者は死刑と決まっていたが、雍正帝はあえて「無罪」に。そしてトドメのトドメ、雍正帝はこの取り調べの記録もまた出版し、民間にくすぶっていた差別思想そのものを封じた。

 民族の対立があったとき、どちらかに偏ったり、どちらかを追い出したり、ナチスドイツのように収容虐殺にまで至る方策を取る政権が「後」の時代にいくらでもいた中、雍正帝は異文化、異民族の共存の道を自らの行いによって示したのだ。

 彼はまた大国の「威厳」というものを人一倍重んじた皇帝でもあった。

 ある地方官が、自分の任地のすぐ近くでもあったベトナムで良き銅山が見つかったことを報告、軍を派遣して占領しては? と伝えると、こう返す。

 「堂々たる王朝は利益のために小さな国と争ったりはしないものだ。戦争をする必要など無い」

 化石燃料やレアメタル、資源の確保と奪い合いのパワーゲームが続く今、この雍正帝の言葉をどう聞くか。各国のリーダーに問うてみたい気もする。

1日20時間、働きに働いた

舞台『君子無朋』で雍正帝を演じる佐々木蔵之介(左)と地方官役の中村蒼=石川純撮影

 短き13年の治世で緊急事態に次々と向き合い続け、それに次々と「答え」を出し続けた雍正帝。とても通常の皇帝のスケジュールではそんなことを果たすことはできず、彼は朝4時から24時まで20時間、働き詰めだった。

 働いた場所は大きな宮殿ではなく、養心殿という小さな建物の、小さな小さな執務室。玉座にふんぞり返ることなく、日夜ひたすら手紙に赤を入れ続けた。死因も、過労死では無いかと推測されている。

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