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「宗派」という矛盾──信じているわけじゃない教えに縛られる理由

[8]制度疲労を起こしている宗派という仕組み

薄井秀夫 (株)寺院デザイン代表取締役

宗派の生まれた事情

 こうした齟齬が生まれるようになったのは、宗派というものに対する考え方が、僧侶側と一般生活者側で異なるからである。

 そもそも宗派は、なぜ生まれたのだろうか。

 その経緯は、日本史の教科書にも出てくるので、歴史好きでなくてもほとんどの人が知っているだろう。日本では、平安、鎌倉といった時代に、それまでの仏教を独自の解釈で発展させた僧侶がいて、そうした僧侶を宗祖として教団が生まれ、後年、組織されていったということだ。

 最澄、空海という名前を記憶している人は多いだろう。平安時代に活躍した僧侶で、二人が説いた教えは、それぞれ天台宗、真言宗として発展していった。また法然、親鸞、道元、日蓮という名前も有名である。この4人の僧侶が説いた教えは、その後、浄土宗、浄土真宗、曹洞宗、日蓮宗として発展し、現代まで続いている。

 異なる教えが説かれ、それを信じる人が集まって宗派が生まれた。ある意味それは、それぞれ異なる宗教でもある。

 ただ、この頃の宗派は、どちらかというとサンガ、つまり同じ教えを信じる僧侶の集団といった傾向が強い。一般信者は余り多くはなかったのである。

比叡山延暦寺東塔大講堂の大日如来像(中央奥)を前に行われた伝教大師最澄の1200年大遠忌法要=2021年6月4日午後、大津市拡大比叡山延暦寺東塔大講堂の大日如来像(中央奥)を前に行われた伝教大師・最澄の1200年大遠忌法要=2021年6月4日、滋賀県大津市

 一般信者が増えてくるのは、仏教が葬送に携わるようになった室町時代後半である。

 全国各地で、死者の葬送のために寺を建立することが流行し、そこには様々な宗派の僧侶が住職として迎えられる。

 ただ、そのお寺の宗派を何にするかは、村人にとってさほど大きな問題ではなかった。

 当時の記録を見ると、この時代に宗派を変えている寺がかなり多い。宗派を変えた理由についての記録はほとんど残っていないが、村の人が丸ごと信じる教えを変えたとは考えにくい。村人の葬儀をしてくれるなら何宗でもよかったので、結果的に、来てくれた僧侶の宗派に変わったというケースがほとんどだったと思われる。

 もともと仏教は、葬送を通して定着したのであるから、宗派の違いというのはあまり意味がなかったのである。

 しかし江戸時代になると、どの寺がどの宗派に属するかを幕府が管理するようになり、庶民がどの寺に属しているかも管理するようになると、宗派の違いも厳格化されていく。さらに、幕府の政策により、本山の権限が高まり、本山と末寺のピラミッド構造がつくられていく。その結果、個人にとっても、お寺にとっても、宗派を変えることは困難になっていく。

 こうした構造は現代にまで残り、多くの人はさして宗派の教えに興味がないのに、宗派に縛られるようになったのである。

 もちろん宗派は、僧侶らにとって大きな意味を持っている。

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筆者

薄井秀夫

薄井秀夫(うすい・ひでお) (株)寺院デザイン代表取締役

1966年生まれ。東北大学文学部卒業(宗教学専攻)。中外日報社、鎌倉新書を経て、2007年、寺の運営コンサルティング会社「寺院デザイン」を設立。著書に『葬祭業界で働く』(共著、ぺりかん社)、 『10年後のお寺をデザインする――寺院仏教のススメ』(鎌倉新書)、『人の集まるお寺のつくり方――檀家の帰属意識をどう高めるか、新しい人々をどう惹きつけるか』(鎌倉新書)など。noteにてマガジン「葬式仏教の研究」を連載中。

※プロフィールは、論座に執筆した当時のものです