宗派の生まれた事情
こうした齟齬が生まれるようになったのは、宗派というものに対する考え方が、僧侶側と一般生活者側で異なるからである。
そもそも宗派は、なぜ生まれたのだろうか。
その経緯は、日本史の教科書にも出てくるので、歴史好きでなくてもほとんどの人が知っているだろう。日本では、平安、鎌倉といった時代に、それまでの仏教を独自の解釈で発展させた僧侶がいて、そうした僧侶を宗祖として教団が生まれ、後年、組織されていったということだ。
最澄、空海という名前を記憶している人は多いだろう。平安時代に活躍した僧侶で、二人が説いた教えは、それぞれ天台宗、真言宗として発展していった。また法然、親鸞、道元、日蓮という名前も有名である。この4人の僧侶が説いた教えは、その後、浄土宗、浄土真宗、曹洞宗、日蓮宗として発展し、現代まで続いている。
異なる教えが説かれ、それを信じる人が集まって宗派が生まれた。ある意味それは、それぞれ異なる宗教でもある。
ただ、この頃の宗派は、どちらかというとサンガ、つまり同じ教えを信じる僧侶の集団といった傾向が強い。一般信者は余り多くはなかったのである。

比叡山延暦寺東塔大講堂の大日如来像(中央奥)を前に行われた伝教大師・最澄の1200年大遠忌法要=2021年6月4日、滋賀県大津市
一般信者が増えてくるのは、仏教が葬送に携わるようになった室町時代後半である。
全国各地で、死者の葬送のために寺を建立することが流行し、そこには様々な宗派の僧侶が住職として迎えられる。
ただ、そのお寺の宗派を何にするかは、村人にとってさほど大きな問題ではなかった。
当時の記録を見ると、この時代に宗派を変えている寺がかなり多い。宗派を変えた理由についての記録はほとんど残っていないが、村の人が丸ごと信じる教えを変えたとは考えにくい。村人の葬儀をしてくれるなら何宗でもよかったので、結果的に、来てくれた僧侶の宗派に変わったというケースがほとんどだったと思われる。
もともと仏教は、葬送を通して定着したのであるから、宗派の違いというのはあまり意味がなかったのである。
しかし江戸時代になると、どの寺がどの宗派に属するかを幕府が管理するようになり、庶民がどの寺に属しているかも管理するようになると、宗派の違いも厳格化されていく。さらに、幕府の政策により、本山の権限が高まり、本山と末寺のピラミッド構造がつくられていく。その結果、個人にとっても、お寺にとっても、宗派を変えることは困難になっていく。
こうした構造は現代にまで残り、多くの人はさして宗派の教えに興味がないのに、宗派に縛られるようになったのである。
もちろん宗派は、僧侶らにとって大きな意味を持っている。
・・・
ログインして読む
(残り:約1842文字/本文:約4045文字)