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オリンピックに際して、大澤真幸著『<女>としての天皇』を読む

「THINKING O」という思考の広場

今野哲男 編集者・ライター

コロナ禍とオリンピックと天皇

 目下の国民的大事であるコロナ禍の下でのオリンピックを考える際に、考えもしなかった重大な視点を与えてくれる面白い本がある。『<女>としての天皇』(大澤真幸、左右社、2021年)である。大澤個人の思想誌的な色合いの濃い単行本シリーズ「THINKING O(オー)」の17冊目にあたる企画で、巻頭に歴史学者・本郷和人との「天皇と武士 なぜ権力が共存したのか」という対談を配し、その後に自身の長大な論文「天皇 武士とのふしぎな共存」が置かれている。

大澤真幸『<女>としての天皇 THINKING O』(左右社)大澤真幸『<女>としての天皇 THINKING O』(左右社)
 「まえがき」には、こういう断り書きがある。「……対談と論考は、前天皇から現天皇への代替わりにともなう行事とほぼ同時進行で、つまり平成三〇年(二〇一八年)から令和元年(二〇一九年)にかけて行われ、執筆された。刊行直前にコロナ禍が急に深刻になり、パンデミックの「哲学的な意味」を主題とする号(『大澤真幸 THINKING「O」第16号 コロナ時代の哲学』──筆者注)を先に刊行したため、本号の刊行は一年近く遅れてしまった」と。おそらく社会の喫緊の課題であるコロナ禍を優先したので、やむなく遅れたのだという、大澤らしいプライド含みの正直なエクスキューズとして書かれたのだろう。

 だが、この遅れが、この6月24日に宮内庁長官が定例会見で発した、例の「(天皇陛下は──筆者注)ご自身が名誉総裁をお務めになるオリンピック・パラリンピックの開催が感染拡大につながらないか、ご懸念されている、ご心配であると拝察しています」という発言により、一転して功を奏することになった。つまり、遅れたことが図らずも天皇を扱う本書の今日性を高め、併せて、コロナ禍とオリンピックによって陰が薄くなっていた「皇位継承」が絡む「女性天皇・女系天皇」の問題を、あらためて想起させることにつながったわけである。

 本書を巡るこの(おそらく、当の大澤にとっても)想定外の展開は、世間一般の動きに対して、古い言い方で言えば「人間万事塞翁が馬」とでも嘯(うそぶ)いているかのような、大澤流の身構えと根本や本質を忘れない思考法がもたらした、稀な僥倖であるように思える。もたらされたものは、いまやオリンピックとコロナ禍が日本の国家体制の反映そのものとして推移しているように見えること、さらに、日本の国家体制を論じるためには天皇の問題への関心が何としても欠かせないこと、この二点への遅まきながらの「気づき」である。

「万事塞翁が馬」に見合う発想

大澤真幸大澤真幸

 前置きが長くなってしまって申し訳ないのだが、或る人の対談集を作っていて、その相方が大澤だったことがある。話が福島の原発事故に及び、彼は以下のようなことを言った。

 「……事故が起きる前までは、多くの人が、原発事故が起こりうると知っていたけれど、まさか実際に起こるとは思っていなかった。でも、あの日僕らは、実際に起こることを思い知ってしまった。そのときに何がわかるかというと、こういうことです。起きてしまった現実はもう変えられないわけですが、同時に、起きてしまってから振り返ってみれば、なぜと思うことがいっぱい出て来て、防げたこともあったはずだと逆に思うわけです。そういうことは、戦後の歴史の中で、たくさんあったと思う。
 経済産業省の原発に関連する部署にいる知り合いが、福島原発の一号炉や二号炉は、二〇〇〇年には使用開始後三十年が経過していて、使うのは三十年の予定でしたから、廃炉にするかどうか省内で議論があった。が、コストが高いので、もう十年間使おうとなって、その十年後に事故が起きたと言いました。なぜ十年前に、コストを厭わずにやめなかったのか、今になって思うと誰もがそう思います。そもそもなんであそこに原発を置いたのかとか、防ぐべきピン・ポイントがいくらでもあったことに気がつく。なぜ、気がつくのかというと、原発事故が起きて、事故が避けられないことを実際に知ってしまったからです。
 だから、起きる可能性を知っているだけでは避けることはできないのです。起きてしまったことを避けられない宿命だったと知ったときに初めて、逆に避けられた可能性があったことがわかるわけです。そうすると、僕はこう思うのです。
 十年後に日本でもう一回原発事故が起きるとします。そのときの日本人は、なぜあのときに廃炉にしなかったんだと思うに決まっています。なぜあの時に決断できなかったんだと思うに違いないのです。その気持ちを、今の段階で持つことができたら、やめられるわけですね。つまり、十年後に原発事故が起こると強く信じていれば、逆にやめられることになる。黙示録的な終末観には、終末の破局が避けられないわけではなく、避けられないという確信があるからこそ、逃れるための想像力が出てくるという逆説があるんです」(『21世紀のマダム・エドワルダ──バタイユの現代性をめぐる6つの対話』大岡淳・編著/「危機論 希望への想像力を獲得するために」、光文社、2015)

 どうだろう。二者択一でもなく、直線的でもなく、逆説と屈折に満ちた「避けられないという確信があるからこそ、避けられるかもしれない」という螺旋状の言い方。まるで今日のオリンピック問題を論じるような口ぶりではないか。

 ここには「人間万事塞翁が馬」の世を処する社会学者として、集合的な意識・無意識のあわいを超えて前進しようとする大澤の、哲学的な覚悟と実験を厭わない思索の膂力(りょりょく)がある(この「構え」は、目下のオリンピック問題を考えるためにも、当然必要だろう)。

日本人にとって天皇とは何か

 このシリーズには、元来そういった実験的な思考が交わされる「アゴラ(広場)」、或いは各巻の関連性を引き出す「相互浸透を許すメディア」の趣があって、その言説空間は、必ずしも予定調和的な結論のために供されていない。本書でも「女性・女系天皇」をはじめ、既存の議論の前提を覆しかねない、多くのスリリングな思考が試みられている。

 例を挙げれば、たとえば、一般に天皇家を特徴づける世界に冠たる歴史的事実と考えられ、とくに保守派がその「天皇論」立論の拠り所にしがちな「万世一系」という観念。──日本人は、代々の天皇を通じて継承される「高貴な血」の同一性にこだわることで、「万世一系」による天皇制の継続性を信じていると見える。

 しかし、彼は「事実はこれとまったく異なっている」と言う。それどころか、日本人は「血の同一性」に対して、ことのほか無頓着だとして、「このことは、たとえば『源氏物語』を読めばわかる」と述べる。「桐壺帝の皇子として──桐壺帝の二代後の──天皇となった冷泉帝は、藤壺の宮(桐壺帝の中宮)の姦通によって生まれた子であって、ほんとうは桐壺帝の子ではない。藤壺の宮の不倫の相手は、もちろん、光源氏である」。しかも「日本人はこの物語を愛している。特に、『源氏物語』の主要な読者は、平安期の貴族、とりわけ天皇自身だったことに気づかなくてはならない」と。つまり、「血の同一性」に支えられた「万世一系」という拠り所には、「同一性への無頓着」に支えられているという、看過されがちな重大な逆説があるのではないかと問うわけだ。

2019年12月12日、赤坂御所、宮内庁提供 2019年12月12日、宮内庁提供

 今一度「まえがき」に戻る。その1行目には「『天皇』は、日本人とは何者かを知るための鍵である」とあり、やがてこう言う。「天皇は、……有用なことはほとんど行ってこなかった。……にも拘わらず、日本人は、天皇制を棄てることはなかった。……ということは逆に、日本人は、天皇をよほど必要としている……どのような意味で必要なのか。……(これは──筆者注)日本人自身にも……よくわかっていない。……天皇は日本社会の歴史における最もはっきりとした常数である。……どうして天皇が必要なのか、を理解することは、(日本人にとって──筆者注)自らが何者であるかを真に明晰に知ることに直結するだろう」と。

 本文で展開される、多岐にわたる思考実験のいちいちを、ここで検討・紹介することはできないが、たとえば、古代末期以降の土地所有を巡って「貴族ないしは武士と、天皇との関係」を探求し、そこから「なぜ(武力を持たない──筆者注)天皇はつぶされなかったのか」という問いに対する解を引き出す手際の良さなどは、本文で追いかけるに足る面白さがある。

 本書所載の論文最終章の章題は、書名と同じ「<女>としての天皇」である。折口信夫の直感的な考察などに基づいて、「天皇の女性性」についての大澤自身の考えが、緻密に詰められていく箇所だが、そこには理屈を超えてフッと立ち止まらせてしまう何かがある。

 わたしはかつて、或る演劇人の戦時体験に事寄せて、「(「天皇陛下万歳!」と「お母さん!」を同時に謳う特攻隊員を念頭に──筆者注)日本の男性社会には、天皇ヒロヒトに母という女性の影を映し見る性的倒錯があったのでは」と書きつけたことがある(『竹内敏晴』、言視舎、2015)。その時に感じた、根拠なき直感ゆえの心の硬いデコボコのようなものが、大澤の論理的で、ときにゲームを思わせる思考実験によって、柔らかく均(なら)されていくのを感じた。本書で辿られた思考が、この先、さらなるエビデンスを得て何処まで発展するのか。刮目して待ちたい。