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オリンピックに際して、大澤真幸著『<女>としての天皇』を読む

「THINKING O」という思考の広場

今野哲男 編集者・ライター

「万事塞翁が馬」に見合う発想

大澤真幸拡大大澤真幸

 前置きが長くなってしまって申し訳ないのだが、或る人の対談集を作っていて、その相方が大澤だったことがある。話が福島の原発事故に及び、彼は以下のようなことを言った。

 「……事故が起きる前までは、多くの人が、原発事故が起こりうると知っていたけれど、まさか実際に起こるとは思っていなかった。でも、あの日僕らは、実際に起こることを思い知ってしまった。そのときに何がわかるかというと、こういうことです。起きてしまった現実はもう変えられないわけですが、同時に、起きてしまってから振り返ってみれば、なぜと思うことがいっぱい出て来て、防げたこともあったはずだと逆に思うわけです。そういうことは、戦後の歴史の中で、たくさんあったと思う。
 経済産業省の原発に関連する部署にいる知り合いが、福島原発の一号炉や二号炉は、二〇〇〇年には使用開始後三十年が経過していて、使うのは三十年の予定でしたから、廃炉にするかどうか省内で議論があった。が、コストが高いので、もう十年間使おうとなって、その十年後に事故が起きたと言いました。なぜ十年前に、コストを厭わずにやめなかったのか、今になって思うと誰もがそう思います。そもそもなんであそこに原発を置いたのかとか、防ぐべきピン・ポイントがいくらでもあったことに気がつく。なぜ、気がつくのかというと、原発事故が起きて、事故が避けられないことを実際に知ってしまったからです。
 だから、起きる可能性を知っているだけでは避けることはできないのです。起きてしまったことを避けられない宿命だったと知ったときに初めて、逆に避けられた可能性があったことがわかるわけです。そうすると、僕はこう思うのです。
 十年後に日本でもう一回原発事故が起きるとします。そのときの日本人は、なぜあのときに廃炉にしなかったんだと思うに決まっています。なぜあの時に決断できなかったんだと思うに違いないのです。その気持ちを、今の段階で持つことができたら、やめられるわけですね。つまり、十年後に原発事故が起こると強く信じていれば、逆にやめられることになる。黙示録的な終末観には、終末の破局が避けられないわけではなく、避けられないという確信があるからこそ、逃れるための想像力が出てくるという逆説があるんです」(『21世紀のマダム・エドワルダ──バタイユの現代性をめぐる6つの対話』大岡淳・編著/「危機論 希望への想像力を獲得するために」、光文社、2015)

 どうだろう。二者択一でもなく、直線的でもなく、逆説と屈折に満ちた「避けられないという確信があるからこそ、避けられるかもしれない」という螺旋状の言い方。まるで今日のオリンピック問題を論じるような口ぶりではないか。

 ここには「人間万事塞翁が馬」の世を処する社会学者として、集合的な意識・無意識のあわいを超えて前進しようとする大澤の、哲学的な覚悟と実験を厭わない思索の膂力(りょりょく)がある(この「構え」は、目下のオリンピック問題を考えるためにも、当然必要だろう)。

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筆者

今野哲男

今野哲男(こんの・てつお) 編集者・ライター

1953年生まれ。月刊『翻訳の世界』編集長を経てフリーに。「光文社古典新訳文庫」に創刊以来かかわり、また演劇体験をいかして『セレクション 竹内敏晴の「からだと思想」』全4巻(藤原書店)などを編集。著書に『竹内敏晴』(言視舎評伝選)、共著に森達也との『希望の国の少数異見』(言視舎)、インタビュアーとしての仕事に、鷲田清一『教養としての「死」を考える』、吉本隆明『生涯現役』(以上、洋泉社)、木村敏『臨床哲学の知』(言視舎)、竹内敏晴『レッスンする人』(藤原書店)、『生きることのレッスン』(トランスビュー)など。現・上智大学非常勤講師。

※プロフィールは、論座に執筆した当時のものです