「八街事件」が学校関係者につきつけたもの
2021年07月30日
行政の不作為による災難に、市民はさらされてきた。ワクチン開発に関わる厚労省の長年の不作為がコロナ禍を深刻なものにし、無症状者を含む市民全体に対するPCR検査未実施の不作為も、これを助長した。
最近の大災害で見れば、熱海市での不法な盛り土を市当局が見逃し放置した事実、ひいては残土処理(これはリニア中央新幹線・北海道整備新幹線事業でも問題化した)について法の不整備を国交省が放置した事実も、同様の災難をもたらした。
小学生5人が下校中にトラックにはねられ死傷した「八街事件」(これに類似した事件は各地で起きてきた)でも、基礎自治体があのような危険な道を放置した(している)事実について、不作為が問われる。
「八街事件」は今後も起こる。運転者のミスは偶然ではなく必然である
「八街事件」をめぐって~車利用者とメーカーは「社会的費用」を払うべきだ
八街市の場合、子どもの親等から通学路の危険性を問題視する訴えが出ていたにもかかわらず──死傷した子どもが通っていた小学校のPTAは、2008~11年度に、事件の起きた道路へのガードレール設置を要請した(朝日新聞デジタル2021年7月1日付)──、それはなぜ深刻に受け止められなかったのか。
しかもあの道路は通学路として利用されただけではなく、通学路と指定されていたのに、なぜその危険性を、自治体関係者(特に教育委員会・児童福祉関係者等)のみならず、市議会議員や、子どもたちの安全・生活に直接かかわる学校教職員が、認識できなかったのか。
あるていど認識はされていたと信ずるが、ではなぜ現場の改良が進まないまま、長年にわたって危険が放置されたのか。
いろいろな要因があろうが、これら関係者が現場の危険性を自らの問題として考慮できなかったこと、そしてそれは、多かれ少なかれマイカー通勤を日常事としているその姿勢に由来する、と私は判断する。
一般に、比較的交通量の多い中心街にある役所=本庁の場合(その職員は、公共交通があるていど生き残っていればこれを利用できる)と異なり、自治体の各地域に分散した小中学校の場合は、マイカー通勤者が圧倒的であろう。私は調査時等によく学校の様子を見聞きしてきたが、その一角を占める教職員用駐車場(それはかなり場所をとる。校庭が小さい学校ではその数割に達する場合もある)に、多くの車がずらりと並んでいるのが常である。
一定年限ごとに各地への異動がありうる小中学校の教職員としては、どこに異動となろうと、マイカーに頼れば通勤問題はかたづくだろう。だがそうした姿勢に甘んずれば、致命的なことに、子どもが日々に歩いて通う道々の状況を満足に知ることができなくなる。
一定の情報を得ていたとしても、それは結局運転者の視点に立った、ただの知識でしかなくなる可能性が高い。残念だが人の置かれた立場は、その認知に決定的な相違をもたらすものである。最近の痛ましい例で言えば、私は音楽家・小山田圭吾氏の「事件」を前に(その「いじめ」は陰湿・残酷すぎる)、いじめる側が、いじめられる側の苦しみをかくまでに無視しうるという事実に、身震いせざるをえなかった。
車の場合も同様である。
一方、鋼鉄と強化ガラスの塊(かたまり)の内に身を置いて、長距離を短時間でやすやすと越えることができ、したがって巨大な運動エネルギーを放出することで、その周囲を行き来する生身の人間の命をたやすく棄損しうる側──
他方、そのかたまりによって日々に命を脅かされながら、それから身を守る術(すべ)をその認知レベルを超えて要求され、近代社会にあるまじき異様な日常を日々に生きなければならない側(子ども)──
この立場の違いを超えるのは、かなり難しい。
つまり、子どもの歩く道の問題性をひとまず自覚できたとしても、教員自身は、
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