第51回ENEOS音楽賞洋楽部門奨励賞を受賞した地方オーケストラの老舗
2021年08月08日
広島交響楽団(広響)が第51回ENEOS音楽賞洋楽部門奨励賞を受賞した。1963年に「広島市民交響楽団」として発足、1972年にプロ化した地方オーケストラの老舗だが、本格的な音楽賞の受賞は初めて。2017年に新設の「音楽総監督」ポストに就いた指揮者・下野竜也(1969ー)の円熟と一体の演奏内容の充実が、「国際平和文化都市」の〝顔〟としてはっきりと認知された形だ。
私は1984年から3年間、日本経済新聞広島支局で記者として働いた。転勤直後、すでに芸術院会員だったベテラン指揮者で、自分とクラシック音楽の出会い的存在だった渡邉曉雄が、広響の音楽監督(没後の現在も名誉音楽監督)に招かれた。
フィンランド人を母、鳩山一郎元首相を義父に持ち、米国へ留学した日本人指揮者第一号の渡邉は、帰国後ただちに日本フィルハーモニー交響楽団を創立。さらに東京都交響楽団の音楽監督も務めるなど、「中央楽壇」でも大物中の大物だった。「今でも『渡邉先生の登場は大事件だった』と、よく聞きます」と、下野も衝撃を追認する。
渡邊を招聘する直前、広響は長期低迷の上に財政基盤が不安定、労使関係も最悪だった。地元財界人の「お飾り」職だったはずの理事長で、すでに90歳を超えていた広島相互銀行(現もみじ銀行)創業会長の森本亨が、事態収拾のために団体交渉の場に現れ、「東京から大指揮者を招く」と約束した経緯がある。
渡邉は宣言を実現するべく、内外一流の指揮者、ソリストを広響に招いた。また、ドイツで頭角を現して間もない広島出身の作曲家、細川俊夫(現コンポーザー・イン・レジデンス)の作品もいち早く紹介した。広響が飛躍する礎が築かれた。
だが、病に倒れた渡邊は2年後、監督ポストを高関健に譲る。以後、田中良和、十束尚宏と若手指揮者の時代が続き、1998年には秋山和慶が東京交響楽団との兼務で広響の音楽監督に就いた。
北米各地のオーケストラの監督を歴任した秋山は、渡邉以来のビッグネームだった。以後、2017年まで20年近く広響の育成に当たる。2015年8月11日に東京のサントリーホールで秋山が指揮、広響の「平和音楽大使」であるマルタ・アルゲリッチがピアノを弾いた「平和の夕べ」演奏会には、天皇皇后両陛下(当時)がご臨席。「日本のクリーヴランド管」の夢は現実となった。
一方、下野は2000年の東京国際音楽コンクール、翌年の仏ブザンソン国際指揮者コンクールで優勝したのを機に、日本で最も多忙な指揮者の仲間入りをした。ただ、どのオーケストラでも監督を補佐する次席。50代を目前に得た広響音楽総監督は、初めて手にしたトップポストだった。
「期待、気負いが大きく、最初の1~2年は手探りでしたね」と下野。渡邊から秋山に至る33年間の蓄積を踏まえ、「『Music for Peace(音楽で平和を)』の標語が象徴する外に向けたメッセージを意識し、秋山先生が目指したレベル向上の手綱を緩めずに過去5年、自分の考え方や音楽づくりを浸透させてきました」と言う。
下野にとって幸運だったのは「楽員の仲がいい」ことだ。
「就任時点の平均年齢は50歳を超えていたのですが、管楽器を中心に世代交代が進み、随分と若返りました。世代間の対立は一切なく、ベテラン勢が若手を可愛がり、若手も遠慮なくガンガン弾き、バランスがすごく良いのです」
優れた〝楽器〟を得た下野は、ウィーン留学時代(1998ー2001年)に確信した自身の理想とする響き、音の出し方を広響で粘り強く実践に移している。
「和音をただきっちり合わせるのではなく、
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