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音楽総監督・下野竜也と「Music for Peace」の道を行く広島交響楽団

第51回ENEOS音楽賞洋楽部門奨励賞を受賞した地方オーケストラの老舗

池田卓夫 音楽ジャーナリスト

  広島交響楽団(広響)が第51回ENEOS音楽賞洋楽部門奨励賞を受賞した。1963年に「広島市民交響楽団」として発足、1972年にプロ化した地方オーケストラの老舗だが、本格的な音楽賞の受賞は初めて。2017年に新設の「音楽総監督」ポストに就いた指揮者・下野竜也(1969ー)の円熟と一体の演奏内容の充実が、「国際平和文化都市」の〝顔〟としてはっきりと認知された形だ。

拡大音楽総監督の下野竜也と広島交響楽団(写真提供・広島交響楽団)

中央楽壇の大物・渡邉曉雄を招聘

 私は1984年から3年間、日本経済新聞広島支局で記者として働いた。転勤直後、すでに芸術院会員だったベテラン指揮者で、自分とクラシック音楽の出会い的存在だった渡邉曉雄が、広響の音楽監督(没後の現在も名誉音楽監督)に招かれた。

 フィンランド人を母、鳩山一郎元首相を義父に持ち、米国へ留学した日本人指揮者第一号の渡邉は、帰国後ただちに日本フィルハーモニー交響楽団を創立。さらに東京都交響楽団の音楽監督も務めるなど、「中央楽壇」でも大物中の大物だった。「今でも『渡邉先生の登場は大事件だった』と、よく聞きます」と、下野も衝撃を追認する。

 渡邊を招聘する直前、広響は長期低迷の上に財政基盤が不安定、労使関係も最悪だった。地元財界人の「お飾り」職だったはずの理事長で、すでに90歳を超えていた広島相互銀行(現もみじ銀行)創業会長の森本亨が、事態収拾のために団体交渉の場に現れ、「東京から大指揮者を招く」と約束した経緯がある。

日本の「クリーヴランド管弦楽団」を目標に

拡大広島交響楽団の中興の祖、渡邉曉雄(写真提供・広島交響楽団)
 就任に先立つ記者会見で渡邉は、「広響を日本のクリーヴランド管弦楽団にしてみせる」と宣言した。オハイオ州クリーヴランドは米国の地方都市だが、ハンガリー出身の指揮者ジョージ・セルが1946~70年の長期に渡りクリーヴランド管の音楽監督を務め、世界屈指の演奏水準に高めた。

 渡邉は宣言を実現するべく、内外一流の指揮者、ソリストを広響に招いた。また、ドイツで頭角を現して間もない広島出身の作曲家、細川俊夫(現コンポーザー・イン・レジデンス)の作品もいち早く紹介した。広響が飛躍する礎が築かれた。

 だが、病に倒れた渡邊は2年後、監督ポストを高関健に譲る。以後、田中良和、十束尚宏と若手指揮者の時代が続き、1998年には秋山和慶が東京交響楽団との兼務で広響の音楽監督に就いた。

 北米各地のオーケストラの監督を歴任した秋山は、渡邉以来のビッグネームだった。以後、2017年まで20年近く広響の育成に当たる。2015年8月11日に東京のサントリーホールで秋山が指揮、広響の「平和音楽大使」であるマルタ・アルゲリッチがピアノを弾いた「平和の夕べ」演奏会には、天皇皇后両陛下(当時)がご臨席。「日本のクリーヴランド管」の夢は現実となった。

拡大秋山和慶(左)と広響「平和音楽大使」のピアニスト、マルタ・アルゲリッチ(写真提供・広島交響楽団)

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筆者

池田卓夫

池田卓夫(いけだ・たくお) 音楽ジャーナリスト

1958年東京都生まれ。81年に早稲田大学政治経済学部政治学科を卒業、(株)日本経済新聞社に記者として入社。企業や株式市場の取材を担当、88〜91年のフランクフルト支局長時代に「ベルリンの壁」崩壊からドイツ統一までを現地から報道した。音楽についての執筆は高校在学中に始め専門誌へも寄稿していた。日経社内でも93年に文化部へ移動、95〜2011年に編集委員を務めた。18年9月に退社後は「音楽ジャーナリスト@いけたく本舗」を名乗り、フリーランスの執筆、プロデュース、解説MC、コンクール審査などを続けている。12年に会津若松市で初演(18年再演)したオペラ「白虎」(加藤昌則作曲)ではエグゼクティブプロデューサーとなり、三菱UFJ信託芸術文化財団の佐川吉男賞を受けた。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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