生島淳(いくしま・じゅん) スポーツ・ジャーナリスト
1967年生まれ。早大卒。国内外、全ジャンルのスポーツを追う。趣味はカーリング。『どんな男になんねん 関西学院大アメリカンフットボール部鳥内流「人の育て方」(共著、ベースボール・マガジン社)、『奇跡のチーム ラグビー日本代表、南アフリカに勝つ』(文春文庫)、『箱根駅伝勝利の名言 監督と選手34人、50の言葉』(講談社+α文庫)など著書多数。
※プロフィールは、論座に執筆した当時のものです
ブレた映像の位置、エクストリーム系コメンタリーのスピリット
視聴デバイスが増えても変わらないものがある。
視点だ。
中継では制作者の視点を通し、世界の視聴者がオリンピックを見る。
2004年のアテネ・オリンピックのときには、体操競技の中継を担当した日本の制作チームが、優れた番組を作ったとして表彰を受けた。
このときの担当者に、体操中継の極意を聞いたことがある。
「審判員の“目”と同じ位置にカメラを置くことです。これに尽きます」
審判の目を意識すると、画面も自ずと決まってくるのだという。つまり、視聴者も審査員のひとりになれる。
だから、演技の途中で他のカメラに切り替えたりはしない。
視点の安定性が大切だからだ。
私は、この体操中継の姿勢は、あらゆる真理だと思っている。
揺るぎない視点が、競技の真理を映し出す。
そこへ行くと、今回失格だったのがマラソンの中継。
今回の中継は、どうやら海外の制作チームだったようだ。
日本のマラソン中継の場合、基本は正面からの絵だ。これで選手の表情が分かる。視聴者は選手たちを見守り続ける。
ところがオリンピックでは、