[9]「見えない宗教」としての葬式仏教
2021年08月17日
今年のお盆は、コロナ禍となって2回目となった。
例年はこの時期、実家に帰る人、レジャーに向かう人で交通機関は混雑するが、今年は去年に引き続き自粛ムードの中でのお盆休みとなった。
お盆というのは、亡くなった家族(先祖)の霊がこの世に戻ってきて、私たちと一緒に暮らす行事だと理解されている。
お盆が近くなると、スーパーなどにも、送り火や迎え火を焚く麻がら、盆棚をしつらえるためのゴザ(敷きもの)、お供え物を乗せるための蓮の葉などを販売する特設コーナーが設けられるのも、このお盆の習慣が根強く残っていることを示している。
お盆休みには実家に帰って、家族親族といっしょに、亡くなった家族とも時間を共にしたいと考えている人も多い。このような時代になっても、お盆は日本人にとってとても大切な行事なのである。
お盆は前述の通り、亡くなった家族の霊を自宅に迎え入れ、数日間一緒に過ごし、再びあの世に送る行事である。
ところが、仏教では、このお盆の位置づけが実に曖昧である。
盂蘭盆経(うらぼんきょう)というお経があり、そこでは次のような物語が記されている。
お釈迦さまの弟子である目蓮さんは、神通力、つまり不思議な力を持っていた。その目蓮さんがある時、亡くなった母親を思い出し、どうしているか気になって神通力で探したところ、餓鬼道(地獄のようなところ)に落ちて飢えに苦しんでいる母親を見つけた。目蓮さんは何とか母親を助けたいと思い、神通力で食べ物を送るが、母親が食べようとするとその食べ物がすぐに燃えてしまい、いつまでたっても食べることができなかった。
目蓮さんは途方に暮れて、お釈迦さまに相談する。するとお釈迦さまは、修行をしている僧侶らにお供えをすれば、その功徳によって母親を救うことができると説く。目蓮さんはお釈迦さまの言葉にしたがい僧侶らに供物を献じたところ、その功徳によって母親が無事食べ物を食べることができ、飢えから救われたのである。
お盆という行事は、このような物語がもとになって始まったものであり、餓鬼道に落ちた家族を救うため、お供えをするようになったという。
コロナ禍で今年は中止しているお寺も多いと思うが、例年は、ほとんどのお寺で、お盆法要の儀式が行われている。その法要後の法話で、この話を聞いたことのある人は多いと思う。どこかのお寺の檀家になっている人であれば、これまで一度くらいはこの物語を聞いているはずである。
ところがこの物語は、どうも聞いていて、据わりの悪さを感じてしまう。まず、この物語を聞いた人は、自分の家族が餓鬼道に落ちていることが前提にされていると感じてしまう。
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