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DaiGo氏の問題発言に思う──自分の「ものさし」だけに依拠する危うさ

香月真理子 フリーランスライター

 メンタリストのDaiGo氏が配信動画の中で、「自分にとって必要もない命は僕にとっては軽い」「ホームレスっていないほうがよくない?」「犯罪者が社会の中にいると問題だし、みんなに害があるでしょ? だから殺すんですよ」「生活保護の人が生きてても僕は得をしない」などと発言し、波紋を呼んでいる。

 8月13日には「間違ったことを言ったので謝罪します」と題する動画を配信。無知ゆえの発言だったことを謝罪し、福岡・北九州で生活困窮者やホームレスの支援をしている「NPO法人抱樸(ほうぼく)」の奥田知志牧師のもとで学ばせてもらうことを報告。14日には「昨日の謝罪を撤回いたします【改めて謝罪】」という動画で、生活保護の受給者や家族、支援者の声を聞き、前日の動画は傷つけた人への謝罪になっていなかったことに気づいたと語った。

 私は2005年から、ライターとして『ビッグイシュー』という雑誌に執筆してきた。『ビッグイシュー』はホームレスの人に働く場をつくることを目的とした雑誌で、1冊売ると定価450円のうち230円が販売者の収入になる。その誌面で、ホームレスや生活困窮者の人々が今の状況に陥った経緯などもたびたび書いてきただけに、一連の発言で、無力感に打ちのめされたことは否めない。

ビッグイシュー販売者 202007東京都千代田区有楽町雑誌「ビッグイシュー」の販売者=2020年7月、東京都千代田区有楽町

DaiGo氏の考え方が凝縮されていた謝罪の言葉

MAHATHIR MOHD YASIN/Shutterstock.comMAHATHIR MOHD YASIN/Shutterstock.com

 人の話を聞くとき、できるだけ私は、いったんはその人の「ものさし」に乗っかることにしている。そのほうが、自分には不可解に思える言動や行動を取った理由も理解しやすくなるからだ。そのものさしを正しいと思えるかどうかは、取材中はなるべく考えないようにしている。このように、人の数だけものさしがあることを知っているはずの私でさえ、私生活ではいつも相手に自分のものさしを押し当て、裁いてばかりいる。

 DaiGo氏の発言で私が引っかかったのは、2度目の謝罪動画で口にした「何かから抜け出すために努力している人は評価されるべきだ」という言葉だった。ここに彼の考え方の核となるものが凝縮されている気がする。

 自分から見て「努力していない」「頑張っていない」と思える人は本当にそうなのだろうか? 「こういう方向に、これだけの量の努力をしないと頑張っているとは言えない」というのは、私自身のものさしでしかない。「頑張っていない」ように見えるその人は、実は私が思いもよらない方向に努力を重ね、人知れず何かを頑張っているのかもしれないし、そもそも「人は頑張らないと価値がない」というものさし自体が正しいのか、怪しんでみたほうがいいのかもしれない。

 人はお金を稼がなくても、罪を犯しても、頑張らなくても、そしてもちろんDaiGo氏も、生きていていいに決まっているし、どんな命にも不可侵の価値がある。

 これに当てはめれば人生のすべてがきれいに割り切れるという、たった一つのものさしなど、この世にはないと私は思っている。一つのものさしに固執していたら、割り切れないものに出くわしたとき、不公平感でいっぱいになる。「お金」はたしかに生死に関わる切実で、わかりやすいものさしの一つだが、私はお金を稼ぐことが下手だ。「お金」をものさしにすると、たちまち自分に価値がないように思えてきて、世界がつまらなくなる。だから、できるだけ別のものさしに注目するようにしてきた。

 私には生まれて間もない甥っ子たちがいる。

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