香月真理子(かつき・まりこ) フリーランスライター
1975年、福岡県生まれ。西南学院大学神学部卒業。編集プロダクション勤務を経て、2005年からフリーランスライターに。著書に『欲望のゆくえ――子どもを性の対象とする人たち』(朝日新聞出版)』。現在、『ビッグイシュー』に執筆中。新型コロナ自粛中に応募した短編小説『獄中結婚の女』が山新文学賞(4月分)準入選に。
※プロフィールは、論座に執筆した当時のものです
人の話を聞くとき、できるだけ私は、いったんはその人の「ものさし」に乗っかることにしている。そのほうが、自分には不可解に思える言動や行動を取った理由も理解しやすくなるからだ。そのものさしを正しいと思えるかどうかは、取材中はなるべく考えないようにしている。このように、人の数だけものさしがあることを知っているはずの私でさえ、私生活ではいつも相手に自分のものさしを押し当て、裁いてばかりいる。
DaiGo氏の発言で私が引っかかったのは、2度目の謝罪動画で口にした「何かから抜け出すために努力している人は評価されるべきだ」という言葉だった。ここに彼の考え方の核となるものが凝縮されている気がする。
自分から見て「努力していない」「頑張っていない」と思える人は本当にそうなのだろうか? 「こういう方向に、これだけの量の努力をしないと頑張っているとは言えない」というのは、私自身のものさしでしかない。「頑張っていない」ように見えるその人は、実は私が思いもよらない方向に努力を重ね、人知れず何かを頑張っているのかもしれないし、そもそも「人は頑張らないと価値がない」というものさし自体が正しいのか、怪しんでみたほうがいいのかもしれない。
人はお金を稼がなくても、罪を犯しても、頑張らなくても、そしてもちろんDaiGo氏も、生きていていいに決まっているし、どんな命にも不可侵の価値がある。
これに当てはめれば人生のすべてがきれいに割り切れるという、たった一つのものさしなど、この世にはないと私は思っている。一つのものさしに固執していたら、割り切れないものに出くわしたとき、不公平感でいっぱいになる。「お金」はたしかに生死に関わる切実で、わかりやすいものさしの一つだが、私はお金を稼ぐことが下手だ。「お金」をものさしにすると、たちまち自分に価値がないように思えてきて、世界がつまらなくなる。だから、できるだけ別のものさしに注目するようにしてきた。
私には生まれて間もない甥っ子たちがいる。