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今こそメキシコ 亡国の悲しみが生んだ寛容の文化が日本に示唆すること

市原湖畔美術館の「メヒコの衝撃」から考えるメキシコと日本の400年と今

前田礼 市原湖畔美術館館長代理/アートフロントギャラリー

 東京オリンピックでの男子サッカー3位決定戦、日本対メキシコ。完敗し号泣する久保建英選手に寄り添い、その健闘を称えなぐさめるメキシコの監督や選手の姿が印象に残った人も多かったのではないだろうか。

 今から53年前のメキシコ・オリンピックで、やはり日本はメキシコと3位を争い、その時は日本が銅メダルを手にし、今回と逆の立場にあった。ある種の宿命のような感じもあるが、実はメキシコは日本にとって最も古い交流の歴史をもつ、日本の国際化にとって掛け替えのない国のひとつなのである。

3位決定戦で敗れ、座り込んで悔しがる久保建英(7)をメキシコの選手がなぐさめた=2021年8月6日、埼玉スタジアム

房総沖の難破から始まった日本・メキシコ交流

 2021年はメキシコがスペインの植民地となって500年、独立から200年にあたる。千葉県の市原湖畔美術館では現在、「メヒコの衝撃―メキシコ体験は日本の根底を揺さぶる」という展覧会が開催されている(9月26日まで)。

 日本とメキシコの交流の歴史を繙(ひもと)きながら、メキシコの人、風土、歴史、芸術に衝撃を受け、自らの表現に向き合ってきた日本人アーティストに焦点を当て、そのメキシコ体験を通してメキシコの魅力を解き明かそうという展覧会だ。私は本展を企画、キュレーションした。

 なぜ、千葉県の美術館でメキシコにかかわる展覧会を、と疑問に思う向きもあるかもしれない。きっかけは、日本とメキシコの交流が今から約400年前、千葉県の房総沖で始まったことにある。

 1609年9月30日、スペイン統治下にあったフィリピンからメキシコに向け航海中だった帆船サンフランシスコ号が台風で座礁し、乗組員373人中56人が溺死、残る317人が御宿浜にたどり着き、村民に救出された。彼らは大多喜城主・本多忠朝の判断により手厚い保護を受けた後、駿府で徳川家康に謁見。翌1610年、家康はウィリアム・アダムス(三浦按針)に建造させた新しい船を与え、一行を無事メキシコに帰国させたのである。

 未明の浜辺に打ち上げられた300人以上の異人たちを発見したときの村民たちの驚き、そして彼らを救おうとした勇気はどれほどだっただろう。海女たちは飢えと寒さと不安にうちふるえる異国の遭難者たちを素肌で温め、蘇生させたという。

サンフランシスコ号の乗組員300人以上が打ち上げられた御宿の浜

対照的な秀吉・家康の外国人への対応

 実は、そのわずか13年前の1596年、スペインの商船が嵐のため土佐沖に漂着している。時の“天下人”は豊臣秀吉。しかし、秀吉は積荷全部と乗組員の所持金を没収し、さらに同船に乗っていた二人の宣教師を捕縛した。

 そのうちのひとりはメキシコ人の24歳の宣教師だった。そして、この2人を含む外国人宣教師と日本人キリシタンの計26人を、長崎ではりつけの刑に処した。

 この長崎での26人の処刑のニュースは、たちまちカトリック諸国に伝わり、人々を震撼させた。メキシコでは、現在は世界遺産となっているクエルナバカ大聖堂に、京都から長崎まで厳冬の中を裸足で引き回され、十字架にかけられた殉教者たちの物語を描いた400平方メートルにわたる壁画が描かれ、そこには「皇帝太閤さまが殉教を命じ」と記されている。日本では彼らが処刑された西坂の丘に1962年、舟越保武による「長崎二十六殉教者記念像」が設置された。その除幕式にはメキシコから100人もの巡礼団が参加したという。

 秀吉と家康を単純に比較することはできないが、困難な状況にある外国人に対して国がとる対処の仕方の極端な例を見ることはできる。

 房総沖で遭難した317人が帰国した翌年、メキシコからは返礼の船が日本に派遣された。1613年、伊達政宗は支倉常長を団長に仙台藩士他180余名からなる「慶長遣欧使節団」をメキシコ経由でスペイン、ローマに派遣した。メキシコのアカプルコ港に着いた彼らは大歓迎を受け、長期にわたって滞在した。しかし、1639年、鎖国令が出され、メキシコとの交流もわずか30年で途絶えてしまった。

クエルナパカ大聖堂の壁画

「メヒコの衝撃 メキシコ体験は日本の根底を揺さぶる」は9月26日(日)まで。
・会場:市原湖畔美術館
・出展アーティスト:北川民次、岡本太郎、利根山光人、深沢幸雄、河原温、水木しげる、スズキコージ、小田香

「友情」に満ちた史実が次々と

 日本がメキシコとの交流を再開するのは、明治になってからだ。鎖国を解き、アメリカをはじめ諸外国との不平等条約を次々と強いられる日本は1888年、初めての平等条約となる日墨修好通商条約を締結した。メキシコは、300年前に日本から受けた恩を忘れていなかった。

 それは、日本がその後、列強諸国と条約改正交渉を行い、平等で対等な関係を結んでいくための突破口となった。3年後、メキシコは東京に公使館を設置するが、そこは国会議事堂にほど近い永田町二番地という超一等地であった。日本政府がメキシコにいかに感謝していたかがわかる。

 友好の歴史はその後も続く。1897年には日本による最初の中南米移民団「榎本移民団」がメキシコ、チアパス州に派遣される。移民の数は年々増え、10年間で1万人を超えた。

 1910年に始まったメキシコ革命。長年の独裁政権を倒して大統領となった革命の父・マデーロが軍部のクーデターによって拘束されると、駐メキシコ公使、堀口九萬一は大統領親族の20人以上を日本公使館に匿(かくま)い、日本人移民たちは銃火の中、護衛や情報収集・電報発信に奔走した。

 九萬一の長男は、のちに詩人となり、ランボーやヴェルレーヌ等の数々のフランス詩の名訳で日本の近代詩に大きな影響を与える堀口大学であり、この「悲劇の10日間」についても書き残している。

 1921年、武装革命の終結が宣言され、10年におよぶ内戦により損害を受けた外国人への損害賠償が決定されるが、唯一、日本人だけは損害賠償権を放棄した。

 第2次世界大戦に際しメキシコは連合国側についたため、日本とメキシコの国交は一時断絶する。だが、終戦後、1948年の国連総会でメキシコは対日平和条約の早期締結を提唱した。

 このように、「友好」、しいて言えば「友情」にみちた史実が、両国の400年以上の関係をたどると数多く見られるのだ。

メキシコに向かった日本のアーティストたち

 1952年、サンフランシスコ平和条約が締結され、日本は国際社会への復帰を果たし、メキシコとの国交も回復する。それを記念して1955年、東京国立博物館で「メキシコ美術展」が開催された。

 同展は古代美術から現代美術、民俗芸術までを網羅した、メキシコ美術3000年の歴史を総覧する千余点からなる大展覧会であった。1964年の東京オリンピックで競技場を設計する丹下健三が会場を構成、ポスターをデザインした亀倉雄策が図録の装丁を手掛け、両国の各大臣が実行委員に名を連ねる国家的展覧会だった。

 この展覧会が日本の美術界、特に若いアーティストたちに与えた衝撃は大きかった。美術後進国と思われていた第三世界のメキシコでは、革命後の社会をつくるために、植民地以前から続く文化遺産を「メキシコ・ルネサンス」として復活させる民衆芸術運動が展開され、多くのアーティストが「壁画運動」に参画した。イサム・ノグチや北川民次などの外国人アーティストも参加している。

 メキシコ美術展は、戦後10年を経て資本主義体制が確立されていく日本社会の中で社会と美術の関係を摸索するアーティストたちの心を動かし、多くのアーティストがメキシコに向かった。

メキシコ壁画運動の中心人物ディエゴ・リベラによる「メキシコの歴史」

岡本太郎の「太陽の塔」と「明日の神話」

 そのうちの一人に岡本太郎もいた。

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