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必見! 濱口竜介『ドライブ・マイ・カー』(下)──危ういリハーサル場面

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

大がかりに展開される映画内演劇のリハーサル

©2021『ドライブ・マイ・カー』製作委員会拡大©2021『ドライブ・マイ・カー』製作委員会

 いずれにせよ、『ドライブ・マイ・カー』では、濱口映画が完成されるまでのプロセスそのものが、『ワーニャ伯父さん』のリハーサル場面として──映画と演劇という相違を超えて──映画本体のなかに組み込まれているのだ(ややこしい言い方になるが、その本読みを含むリハーサル場面はむろんフィクションであり、本作のリハーサルとは別物──擬似物ではあれ──であり、作中のリハーサルで稽古をする役者たちは、<演じることを演じる>という二重の演技をするわけだ。これはむろん、本作に限らず、映画内演劇を題材にした澤井信一郎監督の『Wの悲劇』(1984、傑作)、アルフレッド・ヒッチコック監督の『舞台恐怖症』(1950、傑作)、エルンスト・ルビッチ監督の『生きるべきか死ぬべきか』(1942、傑作)、などなどに共通するモチーフである)。

 ともかく、そうした点において、『ドライブ・マイ・カー』はきわめて意欲的な“演技/演出論映画”でもある(アーティストの瀬尾夏美は本作を、端的に「“演じること”についての映画だ」と述べる<「聞くこと、演じること」、前掲『文学界』所収>)。

©2021『ドライブ・マイ・カー』製作委員会拡大©2021『ドライブ・マイ・カー』製作委員会

 そして、家福の演出する『ワーニャ伯父さん』が、さまざまな国籍の役者たちが多言語で演じる芝居である以上、そのリハーサルにおいては、家福と役者たちの間の、また役者間の相互触発、支え合い、葛藤、ディスコミュニケーション(齟齬)が生じる。つまりそこでは、相手の言葉に耳を傾けること・それに反応(共振あるいは反発)することを、“今この瞬間に生起する事件”として生け捕りにするという、濱口が映画制作の現場でこだわり続けているモチーフが、映画内演劇のリハーサルとして、かつてないほど大がかりに展開されるのだ(むろん、前述の家福とみさき/三浦透子の“相互カウンセリング”も、少しずつ言葉を交わしあうことが共振=相互触発=“化学反応”にいたるという、すぐれて濱口的なシーンである)。

©2021『ドライブ・マイ・カー』製作委員会拡大みさき(三浦透子) ©2021『ドライブ・マイ・カー』製作委員会

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筆者

藤崎康

藤崎康(ふじさき・こう) 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

東京都生まれ。映画評論家、文芸評論家。1983年、慶応義塾大学フランス文学科大学院博士課程修了。著書に『戦争の映画史――恐怖と快楽のフィルム学』(朝日選書)など。現在『クロード・シャブロル論』(仮題)を準備中。熱狂的なスロージョガ―、かつ草テニスプレーヤー。わが人生のべスト3(順不同)は邦画が、山中貞雄『丹下左膳余話 百万両の壺』、江崎実生『逢いたくて逢いたくて』、黒沢清『叫』、洋画がジョン・フォード『長い灰色の線』、クロード・シャブロル『野獣死すべし』、シルベスター・スタローン『ランボー 最後の戦場』(いずれも順不同)

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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