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人生の答えあわせ~40代から年齢を重ねて見えてきたfortune 槇村さとる 

「人生100年」時代。元気に、Happyにどう生きるか……

槇村さとる 漫画家

なつかしい話は人生のスイーツみたい

 なつかしい話というのは人生のスイーツみたいだ。甘味、美味。どんなに身勝手に自分勝手に想い出してもかまわないのだから。

 「それはちがう」とか「あなたはそう想ってたかもしれないが私にはそうきこえなかった」とか、文句を言う人はもう自分の近くにいないし、思いきり美化して反論しようもない人(夫や若い人)に向かってたれ流す……そんな中高年になりたくない! 語ってる最中、うっとりしている顔を人に見られるのもアホウみたいで恥ずかしい。そんな想い出話をしてる場合じゃないデショ! 今しなきゃいけないのは目の前の仕事。目の前のネーム(漫画の設計図のこと。絵コンテ)を描くことだろうが! と思うタイプの人間だった。

 ――なのに、このごろ折にふれ人を想い出し、エピソードを想い出し、感情を想い出し、そのことについてもう一度考えたりしてしまう。そういう時、「老けたな」と思う。

 まあ実際、齢はとったし、身体はあちこちポンコツで頭ン中も人並みにあやしい感じだしね。想い出に溺れてしまうのは仕方ないか……と許せるが……。しかし、掃除の最中などに過去の自作を読みふけってしまい、うっかりツボって笑ったり涙ぐんだりしてしまう様は、バカ丸出しである。

 自分で何を描いたのかをすっかり忘れて読者になり切ってしまうのだ。30年前の自分の作品で今、ニヤニヤしたりびっくりしてりゃあ世話ないわァ。

槇村さとるさん=2020年12月18日、東京都武蔵野市

私の描き方は体系をもたないフリースタイル

 50年も描いているのだ。

 新人の時は、ひとつの作品、ひとつの課題、ひとつのエピソードさえ想いつかず、人間とは何か? なんかも知らず、少しずつ武器を手に入れ、人間としての経験を積み、それを煮て? 蒸して? 加工して、ネームを描く技術や自分のツボを知って、描けるようになってきた。

 また、読んでくれる人達と自分のポジション取りなども、苦労したポイントだ。

 あと仕事上の人間関係ね、そりゃもう大変。でもまあそれも今は昔。……です。

 今や私の描き方は、あまり「漫画の描き方」として人に話せるような体系を持たないフリースタイル化している。

 こんな感じだ。

 まず紙の前に座る。みつめる、「ひとつだけ」と心の中でつぶやく。とりあえず、とにかく、ひとつだけ、描きたいことを、決める。

 表情でもよい、エピでもよいし、雰囲気でも、感情でも、何かを探し出すためによすがになるものをたぐっていく。ああこれだわ、これ描きたいのよ私! というものを探り出せたらひと段落。その種(タネ)から前後左右に枝葉を広げていけるからだ。

 作品の種は苦しい思いだったり、エゴさだったり、切なさだったり、だいたい描きたいコトの回りには、あまり他人には話せない情けないだらしない自身の経験だ。

ネーム描きと家事をミルフィーユにして

『新50代は悩み多きお年頃』から©槇村さとる」
 さて、そんな種探し、ネタだし、ネーム描きは、けっこうエネルギーを使う。脳は疲れ、心も消耗するので、私はネームと家事をミルフィーユにして、すすめる。15分とか20分とか、ネームに集中し、15分とか20分とか無心に家事をする。私にとって家事は「ただ対象に没頭する」極楽タイム。

 やればやるだけ部屋はきれい。ネームは進む。部屋はきれい。ネームは……(つづく……)。そうやって、どこを切ってもマインドフルネスなひとときをすごし、夕方飲むビールはこの上なくうまい。

 15分以上脳をいじめつづけない! 疲れる前に、やめる! 15分に一回自分をほめまくって細かく達成感を味わう! これが私が50年かけてあみ出したネームのつくり方⁉ (笑)

 ネームづくりの時の人気ナンバーワンの家事は台所みがき。特に流し回りをキラッキラにみがく時は気分も良い。自分の中へ深く入っていくネームのプロセスと、汚れを取ってステンレス本来の輝きをみがき出すという行為が似ていて、ノリが良いのかもしれない。

 そう書くと、槇村さんちは整理整頓されてキラッている……ように想像される方もおるかもしれないので言っとくけど、「流し」以外はいつもゴタゴタ状態です。

「千代ばあのようになるだろう、なりたいのだ」

 40代なかばから、流しみがきは始まった気がする。私は流しに向かう時(大ゲサ!)、必ずある人のことを想い出すのだ。その人の名は「織田千代」。「千代ばあ」……自分の作中に出てくるバーサンだ。『おいしい関係』というレストランを舞台にした、食べること、食べさせること、愛すること、愛されなかったこと……などにまつわるストーリー。少女の成長譚なのだが、そこに出てくる、食の世界の御意見番的な、いじわるバーサンが千代ばあだ。うまいものを食い、好きなように自分で決定して生き、他人に忖度(そんたく)せず空気は読まず、「和」をこわしまくり、暴力的で(ツエを振りまわしている)カッコイイバーサンだ。

 私はこのバーサンが大好きで、作中の事態が膠着(こうちゃく)すると、必ずこのバーサンを呼び出し、大暴れしてもらって若いモン(主人公たち)のオシリをたたいてもらう。千代ばあ、大好き。このストーリーの連載中はあまり自覚がなかったが、千代ばあは自動書記だった(話がオカルトチックになってますが、ついてきて下さい)。

 登場すればOK。あとは千代ばあが勝手に動き、しゃべり出し、暴れ、風のように去っていく。そんな描き心地だったのです。当時はとても不思議に思っていました。

 私はたびたび原稿上の千代ばあに向かって、「あなたはだれなの?」と問いかけていました。そして、うすうすはわかっていたような気がします。「いつか千代ばあのように私はなるのだろう、なりたいのだ。千代ばあはいつも私の中にいる、ウソをつかない丸出しの私なのだ」と。

勝手に自分物語をつくり上げる。幸福な妄想

『新50代は悩み多きお年頃』(光文社)
 『おいしい関係』の作品にこんなシーンがあります。

 “ねぼうした主人公が台所へ走っていくと、すでに千代ばあが朝食のしたくにかかっている。米をとぐ音がきこえる。掌(てのひら)で米をとぎ水をそそぎすてる。水と一緒にこぼれてしまった流しの中のひと粒の米を見つけた千代ばあのアップ、人差し指を米に押しつけ、くっついた米を釜にピッとはじいて戻す。それを見てる主人公”

 このシーンは、自分について多くを語らない千代という人間を表現しようとふと思い、描いた。反戦、子供を戦争に出し、食べ物のない時代を生き抜き、米と野菜とあとに続く料理人たちを育てようとする、女。

 このシーンを描いた時も、やはり「千代ばあ、あんただれ?」と思ってたと思う。

 表現するということのおそろしさは、隠しおおせないということです。どんなに隠そうとしても出てくる。その人の本質というか芯の部分が出て来てしまう。先に! 無意識の底に眠る自分でもまだ知らない自分が出てくるんです。コワイですね~~~っ。

 こういうキャラクターが出て来た時は、少ない力で大きな話をつくれるし、思い入れも強く、楽しく、幸福に描けます。

 そして時間がたった時、そのキャラクターは、果たして自分なのか? 自分は千代ばあになれているのか? と人生の答えあわせが出来るのです。「なつかしい話」の中でもこの「答えあわせ」みたいな類が好きだ。あーでもない、こーでもないと勝手に自分物語をつくり上げてゆく。幸福な妄想。

 ああ……これを老けたって言うのよね、わかってますとも。

**『新50代は悩み多きお年頃』(光文社)**
「人生100年」時代と言われているけれど、40代、50代から生じる精神的、肉体的な悩みとうまく付き合いながら、いかにして日々、充実した時間を過ごしていくか。更年期を経験して心の不調とも向き合いながらも今は元気に、Happyに過ごす秘けつがイラストとともに綴られたエッセイ 『新50代は悩み多きお年頃』(光文社)が好評発売中!