2021年09月20日
今年も「敬老の日」がやってきた。これを機に、「高齢社会」に関わる各種問題が論じられているが、高齢者を含む弱者に配慮した都市計画を、と私は願う。
この点では、古代・中世都市に学ぶべきものがある。
紀元後79年、イタリアのヴェスビオス火山で大噴火が起き、一晩降り続いた火山灰等のために埋没したのが、ポンペイという都市である。
ポンペイにはいろいろ興味深いことがあるが、街づくりの観点から興味深いのは、馬車が走る「車道」に、一般の歩道なみに高くした横断歩道が設けられていたことである。歩行者は、間をおいて置かれた舗石上を歩いて、車道を安全に渡ることができる。
馬車からすれば、高さ数十cmの舗石が行く手を遮るように並置されているのであるから、車輪を、速度を落として舗石の間に慎重に通すしかなかったはずである。これにより、子ども・高齢者を含む社会的な弱者の命が守られただろう。
今日これをそのまま採用することはできないが、その精神を横断歩道づくりに活かすことはできる(「池袋の「暴走事件」を、運転する高齢者の注意義務にとどめてはならない」)。
高齢者に関してより興味深く感ずるのは、市中には、道路沿いの壁にベンチを作りつける邸宅があったという事実である。私はこれを、道路・都市計画に関する確か運輸省(現国土交通省)が作った大型の冊子で見た。
この冊子は、一昨年(2019年)、定年退職時のどさくさにまぎれて紛失してしまったため、ポンペイの印象深いベンチをここでお見せできない。けれども機能的にそれと同じ構造物を、中世期イタリアの都市フィレンツェに見ることができる(鈴木隆之建築設計事務所 blog)。ポンペイでも、これと同形のベンチが貴族の邸宅の壁ぞいに作られ、当時、高齢者はそこで自由に体を休められたのである。
人権という近代的な発想がなかった古代・中世都市において、弱者の便宜を優先した街づくりがなされていた事実に驚かされる。それと比べると、現代社会はその種の配慮に乏しいように思われる。2000年代、私は「買い物難民」調査のために全国各地を歩いたが、公園以外の場所でベンチを見たことはあまりなかった(後述)。
だがベンチは、高齢者には必要不可欠である。(1)散歩のために、(2)日々の生活のために。
若い人は実感できないと思うが、一般に筋肉は50歳頃から衰え始め、それは加齢とともにめだってくる。すると日常的な動作に影響が出始める。そして、ちょっとした段差につまずき、歩行後に疲労が残り、息切れせずに階段を上れないといった老化現象がめだってくる。
これが高じると、心身衰弱(フレイル)や筋肉減少症(サルコペニア)に陥ることがある。いずれも「要介護」に移行するリスクが高いとされ、これを防ぎ健康寿命をのばすために、筋トレ・散歩・ジョギング等の有酸素運動が推奨されている。
このうち最も手近な有酸素運動である「散歩」は、ただの逍遥(しょうよう=ぶらぶら歩き)ではなく、むしろ腕を振り、かかとから着地する「早歩き」「大幅歩き」のことである(そのため「ウォーキング」という言葉が使われることも多い)。しかもできれば毎日7500歩以上、あるいは1万歩以上歩くのが良いなどと言われている。
けれども、休みなしに日々にこれだけ歩くのは、高齢者にはかなりきつい。むりなく歩くためには、ある程度歩いたら体を休められるのが望ましい。でも自由に休める場所はなかなか見あたらない。公園があればベンチがと思うが、公園はどこにでもある訳ではない。あったとしてもベンチがない公園も多い。
私も毎日散歩をするが、折りたたみのパイプ椅子をリュックに入れている。だが早歩きやジョギングをするには、この程度のものでも背中で揺れてじゃまになる。しかもパイプ椅子は小さくて座ると体が前かがみになるため、腰にはあまり良くない。往来の場に座りこむのも、いささかはばかられる。
だから高齢者の健康寿命をのばすために、ベンチがほしい。
いやそれ以前に、
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