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劇作家、清水邦夫の言葉を受け継いで

音楽で結ばれた「師弟」、『雨の夏、三十人のジュリエットが還ってきた』上演

南谷朝子 俳優・シンガーソングライター

 今年の春に84歳で世を去った劇作家の清水邦夫さん。鮮烈な言語感覚と豊かなイメージで数多くの戯曲を書き、「劇詩人」と評された。その作品はいまも、様々な形で上演されている。かつて清水さんが主宰した劇団「木冬社(もくとうしゃ)」に所属した俳優、南谷朝子さんも、清水作品に取り組み続けている。10月の『雨の夏、三十人のジュリエットが還ってきた』公演を前に、思いをつづる。

木冬社で演劇と社会への扉が開く

 2021年4月15日。世界的な感染症の脅威に晒されながら演劇活動を模索し続ける私に届いた訃報は、覚悟していたものとはいえ胸の奥を木槌で叩かれた様な衝撃を与えた。

 1980年代の半ばに劇作家・清水邦夫の率いる「木冬社」の門を叩き、そのまま劇団員となって幾つかの清水作品に出演した時間が甦る。今や木冬社を離れてからの方が遥かに長くなった私ではあるが木冬社で過ごした時間は濃縮された果汁の様に現在も脈を打っていたからだ。

 当時の清水さんは蜷川幸雄との仕事で“時代の旗手”と謳われた時を経、女優・松本典子と共に清水戯曲の上演を柱とする劇団・木冬社を運営していた。

拡大清水邦夫(左)と松本典子
 オーディションで木冬社に入り、何度かの査定を受けて劇団員になっていく私達へ目の覚めるような指導をし続けた松本さんは“同じ舞台に立つ者としてこうなって欲しい”という種類の言葉をよく使った。演劇が、多くの人を巻き込んでの総合芸術だという事を私は知らず知らずのうちに学んでいた。

 大人数での会食が憚られる昨今であるが、当時一つの舞台を創る日々の中に「飲み会」は欠かせなかった。

 そもそも集団行動が苦手だった私は隅っこに居て隙あらばフェイドアウトの機会を狙っていたが、或る日の飲み会で清水さんは私を指して「こういう代々木みたいな奴が……」と言った。……ヨヨギ? お気楽な学生だった私が初めて耳にした政治用語。こんな具合に私の社会への扉も開かれていったのである。

清水邦夫(1936~2021)
拡大
 新潟県生まれ。早稲田大学在学中に書いた『署名人』で注目され、1968年に演出家の蜷川幸雄らと「現代人劇場(のちに「櫻社」)」を結成。蜷川とのコンビで『心情あふるる軽薄さ』『ぼくらが非情の大河をくだる時』など、時代を象徴する数々の作品を発表した。櫻社解散後の76年から、俳優で妻の松本典子(1935~2014)とともに「木冬社」を主宰。『楽屋』『 火のようにさみしい姉がいて』など多くの作品を作・演出。また、劇団民芸に書き下ろした『わが魂は輝く水なり』『エレジー 父の夢は舞う』や、再び、蜷川と組んだ『タンゴ・冬の終わりに』など数多くの秀作戯曲を残した。


筆者

南谷朝子

南谷朝子(みなみたに・あさこ) 俳優・シンガーソングライター

東京生まれ。成城大学在学中に劇団木冬社に参加し、演劇活動を始める。主な出演作は、木冬社『夢去りて、オルフェ』『哄笑』『楽屋』『弟よ』(清水邦夫作・演出)、二兎社『僕の東京日記』『萩家の三姉妹』、『東京原子核クラブ』(マキノノゾミ作・演出)、劇団桟敷童子『可愛い千里眼』、燐光群『だるまさんがころんだ』、野外劇『日輪の翼』(中上健次原作、やなぎみわ演出)など。映画『赤い橋の下のぬるい水』(今村昌平監督)などにも出演。2004年から音楽活動も始め、ライブのほか、アルバム「ぷりえ~a live album」などを発表。

※プロフィールは、論座に執筆した当時のものです