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東京五輪音頭 “歌謡遺産転がし”による国民総踊り計画はなぜ失敗したのか・後編

【41】東京五輪音頭

前田和男 翻訳家・ノンフィクション作家

 戦後日本の復活を印象づけた1964年東京五輪の際に大ブレイクした昭和歌謡「東京五輪音頭」のリメイクした「東京五輪音頭―2020―」を使い、令和日本の東京オリンピック・パラリンピックを盛り上げようとした国民総踊り計画。しかし、“歌謡遺産転がし”ともいえるこの試みは、あえなく失敗に終わった。

 日本が元気だったころの再来を夢見て、二匹目のドジョウを狙って国が主導した企てはなぜ、うまくいかなかったのか。論座「“歌謡遺産転がし”による国民総踊り計画はなぜ失敗したのか・前編」に引き続き論じたい。「失敗の検証」から浮かび上がったのは、日本の「今」への深刻な懸念だ。

東京五輪音頭 昭和38(1963)年

作詞・宮田隆、作曲・古賀政男、歌・三波春夫

場所:東京

東京オリンピック・パラリンピックのプレイベントとしてJヴィレッジのグラウンドで「東京五輪音頭―2020―」を踊る参加者たち=2019年9月6日、楢葉町山田岡

「五輪音頭」で盛り上った64年五輪前の盆踊り

 本稿の前編で明らかにしたように、今回の「東京オリンピック・パラリンピック2020」において、半世紀前の1964年東京オリンピックのテーマソングをリメイクした狙いは、“歌謡遺産転がし”によって国民を総動員して躍らせようという一大作戦にあった。そうであれば、その企画立案には、日本を代表する知恵者がかかわっていたはずであり、事前に下調べをし、これならやれるという「確証」を得ていたはずである。

 64年東京オリンピックの当時、東京の高校3年生であった私には、その年の盆踊りで「五輪音頭」が踊られていた記憶がある。真偽を確かめるべく、同世代の友人10人ほどに「コロナ見舞い」をかねてメールと電話をしてみた。

 東京神田生まれの生粋の江戸っ子は「はっきり記憶に残っている」と言い切った。当時広島で高校2年だった友人からは、「わが家にテレビが初めて入ったのは1963年。五輪へ向けてテレビが急速に普及している時期だった。当時、五輪音頭が流され、人が踊っているのを眺めていた記憶が残っている」と言う。高校まで長崎で暮らした友人からは、「盆踊りで実際に踊った」という回答があった。

 興味深かったのは、それらの友人のなかで、今回の「新東京音頭国民総踊り計画」に参加したものは一人もおらず、その存在すらも知らなかったことだ。

 友人情報だけでは「証拠不十分」なので、往時の新聞記事をあたってみた。すると、元祖五輪音頭は、わずか1年前のリリースという「にわか仕込み」にもかかわらず、その年日本各地の盆踊りで踊られたことは間違いなさそうである。ちなみに――

 「東京五輪音頭」が制作発表されて5カ月後の1963年11月2日、五輪のプレイベントとして招致された東京国際スポーツ大会には35カ国が参加。その前夜祭には国立競技場に7万人の観客をあつめ、そこで日本民謡協会の踊り手7000人によって踊られた。(読売新聞、1963年11月3日)

 翌1964年の9月9日、宮崎県延岡で行われた聖火リレーでは、それをことほいで1万人の市民が「東京五輪音頭」を踊った(読売新聞、1964年9月10日)

 10月9日、東京後楽園球場を満席にする4万人弱を集めて開かれた前夜祭では、東京母の会連合会の総勢1500人による「東京五輪音頭」の踊りがはじまると、スタンドの観客が、にぎやかに手拍子をあわせた。(朝日新聞、1964年10月10日)

東京五輪開会式前日の10月9日夜には大前夜祭が後楽園球場で行われておおいに盛り上がり、約1500人が「東京五輪音頭」を踊った=1964年10月9日

 こうした「事前情報」を企画立案者たちも確認したはずで、今回は3年も前に仕込むのだから、前回を超える大成功まちがいなしと胸算用したとしても不思議ではない。ところが、すでに前編で記したように、今回は、笛を吹けども、国民は踊ってくれなかった。勧進元にすれば、まさかの結果だったろうが、それにはしかるべき理由があったのである。

若い世代の唄ではなかった

 耳にタコができるほど聞かされたおかげで、今も口ずさむことができる五輪音頭。私の実体験から、先に結論を記すと、今の日本で国民が再び踊ってくれなかった理由は、ひとえに往時の時代状況に対する現代の無理解・誤解のなせるワザである。

 この歌を耳にした私の第一印象は、強い違和感だった。それは、海の向こうからやってくるオリンピックというモダンな香りと、派手な着物姿の民謡歌手のドメスティックな泥臭さとのミスマッチだ。

 これは私だけの印象ではない。前年には、いわゆる“ビートルズ旋風”が日本にも上陸し、多くの同級生や下級生はたちまち虜になった。中にはビートルズに距離感をもち、舟木一夫や吉永小百合の青春歌謡曲を愛好する者たちもいたが、断言できるのは、それらをひっくるめて三波春夫のファンは皆無に近かったということだ。少なくとも、「東京五輪音頭」は、若い世代の唄ではなかった。

 なお、「東京五輪音頭」は、録音権が開放されており、三橋美智也や坂本九や橋幸夫、大御所では藤山一郎など有力歌手が競ってレコードリリースしていた。私もそうだったが、当時の日本国民の多くにとって、ラジオやテレビから耳に入ってくるのは三波春夫の朗々たる声音なので、てっきり三波の持ち歌だとばかり思っていた。

「五輪音頭」は「チャンチキおけさ」から孵ったヒナ

 そして、今だに忘れられないのは、私が「東京五輪音頭」に違和感を覚えたときに、三波の「チャンチキおけさ」が執拗に耳にかぶさってきたことだった。

 三波春夫というキッチュな存在を知ったのは、東京五輪の5、6年ほど前、三波がうたって大ヒットした「チャンチキおけさ」( 作詞:門井八郎 作曲:長津義司 、1957年)である。

♪月がわびしい路地裏で・・・小皿たたいてチャンチキおけさ……
♪故郷(くに)を出る時、持って来た、でっかい夢を……

 10歳の小学生には、この歌詞が、東京をめざして地方からやってきた人々の挫折を慰撫するものとまでは理解が及ばず、調子のよさから、♪チャララ、チャララ、チャラララ、ラララと囃子詞(はやしことば)を合唱しながら給食の皿をたたくのが、同級生のあいだではやった。自宅でもそれをやって、母親から「子どもがそんなことをするものではありません」とさんざんたしなめられたものだった。

 やがて私たちの耳元へ、コニー・フランシスやニール・セダカのアメリカンポップスが届き、すっかりそれに魅了されると、「チャンチキおけさ」の珍奇さはますます脳裏の奥底に刻みこまれた。

 要するに、私たち団塊世代にとって、三波春夫はキッチュな歌い手として忘れがたい存在であり、「チャンチキおけさ」はその珍妙な懐メロの卵、「東京五輪音頭」はそこから孵(かえ)ったヒナといっていいかもしれない。

歌手人生を振り返って語る三波春夫さん(当時66歳)=1989年11月15日、東京都中野区の事務所

あっという間に冷めた「東京五輪音頭」熱

 だからか、若い私たちは、どうして大人たちはこんな歌に乗せられて盆踊りを踊ってしまうのか、心底不思議だった。しかし、実は当の大人たちも、ヒナである「東京五輪音頭」が成鳥にまで育つとは思っていなかった節がある。「東京五輪音頭」熱はあっという間に冷めてしまったからである。

 先の友人たちにも確認したところ、「東京五輪音頭」で盆踊りを踊ったのは、東京オリンピックの前だけで、私の記憶でも、それ以降、東京の盆踊りのBGMは定番の「東京音頭」や「炭坑節」に復している。それについて新聞記事にはこんな論評が掲載されている。

 「あれから4年。また五輪の季節がやってきた。が、この五輪音頭、いまや人びとの口にのぼることは少ない。音楽専門家は『国民全体を踊らせようという意図でつくられたうた。大きな集会で、はなやかに流されても、人びとが自然と口ずさむうたではない』と口をそろえる。『心に深く定着するうたではない』ともいう。流行歌として短命だったのは、五輪というワクにあまりにピタリだったためだろうか。オリンピック・サイズでつくられた競技施設がその巨体をもてあましているように。東京五輪の立役者東龍太郎前都知事にきいてみた。『五輪音頭?歌詞もメロディーも忘れたなあ。そうそう、歌い手はたしか三波春夫だった』」

「東京五輪音頭」のレコードと「東京五輪音頭―2020―」のCD=2019年5月14日、東京都渋谷区の古賀政男音楽博物館

(朝日新聞東京版朝刊 1968年6月1日「東京のうた 波に乗った4年前」)

「五輪音頭」から「世界の国からこんにちは」へ

 さて、ここからが「失敗の検証」にとって、肝心なところである。

 では、「チャンチキおけさ」という卵から生まれた「東京五輪音頭」は、「ヒナ」のまま終わったのかというと、そうではなかった。

 前掲の1968年の朝日新聞の指摘は2年後に覆される。時代は、三波春夫と「五輪音頭」を忘れていなかったのである。

 1970年3月15日、「大阪万博」が開幕した。せいぜい2000万人がいいところだろうという大方の予想を大きく裏切って、半年間の会期で、のべ6421万8770人.なんと国民の半数を超える人が万博会場を訪れた。

 来場者は万博史上最多を記録。この未曾有の動員の功労者の筆頭は、三波がうたいあげた万博のテーマソング「世界の国からこんにちは」(作詞・島田陽子、作曲・中村八大)であった。

♪こんにちは こんにちは 世界のひとが/こんにちは こんにちは さくらの国で……

 全国津々浦々で流された三波の歌声に誘われて、人々は大阪は千里の会場へと足を運んだのである。

 この万博テーマソングもまた、「東京五輪音頭」にならってレコード会社各社の競作だった。テイチクの三波春夫をはじめ、坂本九(東芝)、吉永小百合(日本ビクター)、山本リンダ(ミノルフォン)、弘田三枝子(日本コロムビア)、西郷輝彦・倍賞美津子(日本クラウン)、ボニー・ジャックス(キングレコード)など有力歌手によってリリースされ、総計で300万枚を売り上げたが、その中でもっとも売れたのが140万枚の三波春夫盤だった。かなり水をあけられての2位が坂本九盤だったことからも、三波が「笛を吹いて国民を躍らせた第一の功労者」であったことは間違いあるまい。

1970年万国博覧会が開幕。お祭り広場の大屋根とそれを突き破る太陽の塔=1970年8月28日

「共産主義国」が得意とするプロパガンダソング

 「チャンチキおけさ」という卵から「東京五輪音頭」というヒナが孵(かえ)り、「世界の国からこんにちは」でついに成鳥となった瞬間だった。

 なぜ、三波にはそれが可能だったのか。

 その経緯については、本連載「嗚呼!昭和歌謡遺産紀行〜あの時、あの場所、あの唄たち」の第1、2回で、大阪万博のテーマソング「世界に国からこんにちは」を取り上げて詳述したので、結論をはしょって記すと、三波春夫が満州でソ連軍の捕虜となってシベリアのラーゲリ(強制収容所)に収容され、そこで“赤色教育”をうけた元“共産主義浪曲師”だったからである。

〈参照〉
「大阪万博その1 笛吹男は収容所帰りの赤色浪曲師 【1】三波春夫『世界の国からこんにちは』」

「大阪万博その2 仕掛けられた「反博」の爆弾 【2】三波春夫『世界の国からこんにちは』」

 「チャンチキおけさ」も「東京五輪音頭」も「世界に国からこんにちは」も、前者は地方上京者の悲哀、残りの2者は国民的イベントとテーマこそちがうが、底抜けの明るさといい、限りない未来信仰といい、そして歌詞の連呼によるサブリミナル効果といい、基本にあるのは、「共産主義国」がもっとも得意とするプロパガンダソングである。

 であればこそ、それは元共産主義者の三波にはお手のものであり、競合する吉永小百合以下の国民的歌手たちを足元にもよせつけなかったのは当然であった。

国民を高度経済成長へ駆り立てた「笛吹男」

 しかし、三波春夫の余人をもっては代え難い「個性」と「才覚」だけで、「東京五輪音頭」が「チャンチキおけさ」からヒナとして孵(かえ)り、「世界の国からこんにちは」という成鳥へと育ったわけではない。そこには、これまた他をもっては代えがたい「揺籃(ゆりかご)」が、重要な役割をはたしていたのである。

 その「揺籃」とは、「今日より明日がよくなる」と国民を信じこませた「高度成長」という名の共同幻想である。

 私は東京は中目黒の育ちだが、中学まではわが家のトイレは汲み取り式だった。それが水洗になるのは、東京オリンピックの開催が持ち上がり、地方出身者が続々と東京へ集まり、彼らの受け皿が求められることになってからである。

 私の近所でも、子ども時代にセミや鬼ヤンマを追いかける格好の遊び場だったガスタンクの森が伐採され、水洗を完備した近代的なアパート群が誕生。それが契機になって、わが家も水洗付きに「改良」された。この頃を境に、私の「故郷」である東京は、都電が撤去され、日本橋の上には高速道路がかかりと、にわかに今日よりも明日が快適で便利で奇麗な大都会へと変貌をとげていく。

1964年東京五輪の開会式。発展途上の街で行われる従来型のオリンピックだった=1964年10月10日

 上京者たちの多くは高度成長に駆り出されて「国を出たときもってきたでっかい夢」は実現できなかったが、時に路地裏の屋台で小皿を叩いて不満をはき出すことはあっても、郊外のニュータウンに2LDKのマイホームを手に入れるぐらいの「小さな夢」はなんとかなえられた。

 したがって、東京“原住民”の私にとっては、三波の「チャンチキおけさ」と「東京五輪音頭」と「世界の国からこんにちは」は、地方から大勢の人が動員されてくる光景の背後にながれる、3つでワンセットのBGMであった。

 三波春夫は、国民を五輪と万博という国家イベントへ駆り出しただけでなく、高度成長という経済イベントへも駆り立てた、希代の「笛吹男」であった。

 それに私がはっきりと気づかされたのは、高度成長が巡航速度に落ち、かげりが見えてきてからである。そのときには、三波はもはや「笛吹男」の役割をおえて歌謡界の大御所となり、この国も「笛吹男」を必要とはしない「成熟」という名の低成長時代に入っていたのだった。

「今日より明日がよくなる」という共同幻想なき日本で

 さて、以上で、「半世紀前の“歌謡遺産転がし”による国民総踊り計画」という今回のオリパラの裏作戦をめぐる検証は完了である。ここから今回の不首尾の原因はおのずから導き出されるだろう。

 東京五輪音頭は、半世紀前に国民の多くを踊らせることに成功したが、それは、高度経済成長を心地よい揺籃(ゆりかご)に、その申し子というべき希代の「笛吹男」によって育て上げられたからである。

 そもそもそうした歴史的文脈を無視して、歌詞のほんの一部と歌手を替えることで、半世紀前と同じように国民を総動員しようと目論んだところに、無理があったのだ。

 おそらく電通傘下の優秀な企画マンが立案したのだろうが、あまりにも安直すぎる。“歌謡遺産転がし”によって国民を踊り狂わせようというのであれば、あの時代と同じく、「今日より明日がよくなる」という共同幻想を全国民が共有することが大前提になる。そうすれば、三波春夫のような異能の「笛吹男」も生まれ、国民に熱を吹き込んで乱舞させることができるかもしれない。

 しかし、いうまでもないことだが、ずいぶん前から日本では「明日は今日より悪くなる」という共同幻想が国民のあいだに深く定着している。そんな状況下で、半世紀前の笛吹唄をリメイクして流されたところで、国民が踊らかなかったのは当然の結果である。

 せめて往時の楽しい思い出が残っている私たち70歳以上は「ノッてくる」のではないかと期待されかもしれないが、むしろ高度成長時代と現在の落差を比較できるだけに、笛を吹かれても再び踊る気分にはなれなかったのだろう。

 ふと思った。先に紹介した加山雄三の聖火リレー走者辞退の真意は、コロナによる“反五輪気分”への配慮ではなく、三波春夫の代役の一人を引き受けたことの無理筋に遅まきながら気づいたからではないか。

「東京五輪音頭―2020―」の「ゆうゆう踊ろう」バージョンを披露する大会公式マスコットの「ミライトワ」、「ソメイティ」ら=2018年11月4日、大阪市天王寺区

2025年大阪万博で危惧される「同じ轍」

 今回のオリパラで「“歌謡遺産転がし”による国民総踊り計画」が失敗したのは、ある歌が遺産(レガシー)になるには、「時代の精神」と激しく共振しなければならないことへの理解が、当事者たちにまったくできていなかったからだ。だが、それ以上に私が心配するのは、彼らが、うまくいかなかったのはコロナのせいだと考えて、「事後検証」を放棄することである。

 だとすると、4年後に控える2度目の大阪万博でも、日本は同じ轍をふみかねないのではないか。あらかじめ忠告しておく。70年万博を彩った「世界の国からこんにちは」を、天童よしみか島津亜矢の歌でリメイクして、再び国民の半数を大阪へ動員しようと企図しても、それは本稿で明らかにしたとおり、失敗が約束されている。

 くれぐれもやめておいたほうがいい。

2025年大阪万博の会場イメージ図=経済産業省提供