フランス人が撮ったことを忘れさせる純粋な映画を作る
2021年10月08日
高度経済成長が終わり社会が転換期を迎えた1974年。戦時からタイムスリップしたように姿を現したのが、旧陸軍少尉・小野田寛郎だ。陸軍中野学校で特殊訓練を受けたのちフィリピンのルバング島に派遣、やがてジャングルに身を潜めた。敗戦を認められず、見えない敵と戦い続けた孤独な30年。国民は「最後の日本兵」を万感の思いで迎えたことだろう。
あれからもうすぐ半世紀。この特異な環境を生き抜いた実在の人物を、フランス人監督が映画『ONODA 一万夜を越えて』の主役に据えた。2年ぶりに開催されたカンヌ国際映画祭では「ある視点」部門のオープニング作品としてスタンディング・オベーションで迎えられ、日本でも10月8日から全国公開される。本作で長編2作目となる気鋭のアルチュール・アラリ監督が制作の裏側を語る。
──2013年にお父さんから小野田さんの存在を初めて聞いたと伺いました。彼はフランスで知られた存在なのですか。
アラリ それほど有名ではありません。フランスでは、2014年に彼が亡くなった時に記事が出て、衝撃を受けた人はいるようです。私は冒険映画を作りたいと願っていたのですが、そのころ父から「長い間、一人で戦争を続けた日本兵がいた」と聞いて、すぐに興味を持ちました。父は小野田さんの名前や潜伏期間などの詳細までは知りませんでしたが。
──小野田さんは戦争に巻き込まれ、被害者でもあり加害者にもなった「複雑なヒーロー」だと思います。彼のどんな面に興味を持ちましたか。
アラリ まさにその「人間的な複雑さ」に興味を覚えました。実際のヒーローとは複雑なものだと思います。多くの敵を殺すなど、時として殺害が許されている人かもしれません。曖昧さのない英雄性はないのです。小野田さんの行動に関しては、白黒はっきりと判断するのは困難です。彼の人生は驚異的で、ほかの人にはほとんど実現不可能と言えるものでした。表向きにはシンプルな物語に見え、その裏には複雑さが横たわっています。彼は神話の形を本当に生きたような男性なのです。
──本作は今年(2021年)のカンヌに参加しましたが、あなたが小野田さんに興味を持ってからは長い時間が経っています。ここまで彼への関心を持続させ、作品を完成させることができた秘訣はありますか。
アラリ たしかに長い時間です。私は2014年から2016年頭まで、長編第1作の『汚れたダイヤモンド』を手がけていました。ただし、その間も『ONODA』の企画は手放しませんでした。それにはプロデューサーの存在が大きかったですね。私と同じくらい情熱を持ち、実現に向けてアイデアを出し、寄り添ってくれたのです。
──ニコラ・オントメさん(ギヨーム・ブラックやアベル・フェラーラ作品を製作する仏人プロデューサー)ですね。あなたたちは二人とも企画の立ち上げ当時、短編映画の経験はあっても長編映画を手がけた経験がなかったと聞き驚きました。しかし、ずいぶん野心的なプロジェクトを最初から一緒に信じることができたのですね。
アラリ (笑) はい、本当に強く信じていたのです。当時、私は『汚れたダイヤモンド』の脚本は書いていて監督をするつもりでしたが、実際に長編映画を撮った経験はありませんでした。しかし、『ONODA』の話は人々が興味を持ってくれると思い、信念を持ち続けました。
──「日本人兵士を描いた外国撮影の映画」ということで、予算集めが大変だったのでは?
アラリ 映画の言語が日本語なので、まず脚本の援助を受けるのが困難でした。とはいえ、フランスはたくさんの援助窓口があるので恵まれています。今回は予算も大きいため、イタリア、ドイツ、ベルギーなどの近隣諸国と共同製作しました。プロデューサーが製作面で頑張ったので、私は脚本に集中できました。全体的に製作体制はうまくいったと思います。
──共同製作であっても世界観に統合性を感じます。まるでアジアか日本の監督が撮った映画のようにも感じました。
アラリ とても心強い言葉です。なぜなら私の監督としてのファンタズム(“夢”や“深い欲望”)は、フランス人が撮ったことを見る人が完全に忘れる、純粋な「映画」を作ることだからです。つまり誰がどのように作ったかなどは察せられない作品です。
──それは大変成功していると思います。しかし、どうやって日本人や小野田さんに対する先入観を避け、映画に取り組むことができたのでしょうか。
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