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夏から秋へ――震災から10年の福島で

海を隠し町を守る「緑地」を眺め、「官製」の賑わいを思う

高木 達 劇作家・脚本家・演出家

 東日本大震災後に、首都圏から故郷の福島県いわき市に戻った劇作家・演出家が、津波被害にあった海辺でくらし、原発事故を身近に感じながら、思いをつづります。五輪の喧騒を遠くに聞きながら過ごした、コロナ禍の中の2021年の夏から秋へ――。

早朝、防災緑地帯を眺めながら歩く

 夢をみた、リアルな。

 リアルと言っても、具体的な場所や実在する親類知人、過去に経験した状況がそのまま現れるのではない。そう、今まで居たような場所、会ったような人物、人生で過ぎ去ったいくつもの場所が、関わった何人もの人物が、重なり合って登場する夢だ。だから、感覚的にリアルなのだ。

 なぜか中年の男性の世話になろうとしている。勿論、僕は自分が見えない。心細さが体温のように感じられるのは夢の中に存在しているからだ。男性は大きな藪を指さす、その下の空洞に寝ろと言う。本当の居場所に戻って眠りたいと尻込みする僕。でも、本当の居場所、帰るべき場所がわからない。男性は僕の心細さを見透かしたように言う、送ろうか。

 こうして僕たちは藪を出るのだが、驚いたことに、そこは古い家屋が建ち並ぶ住宅街の真ん中だ。家並みの向こうには今立っている道と平行に通りが見える。通りに沿った住宅の連なりも同じ風景だ。その後ろにも同じような通りと家の連なり。それが幾重にもサンドイッチのように重なって見える。どこへ向かったらいいのか。尋ねようと振り返るが、いつの間にか男性はいない。

福島県いわき市内でも津波被害が大きかった豊間地区の防災緑地。正面奥に見えるのが塩屋埼灯台=2021年2月撮影
 ぷかりと現実世界に浮かび上がった。久之浜の自宅の寝室だ、外はまだ暗い。ざわつく心を鎮めようと散歩に出た。防潮堤沿いの緑地帯を歩いてから町に下り、古めかしい家々が軒を寄せる裏通りのコースだ。

 波音に包まれながら緑地帯の遊歩道を歩く。左側の下には真新しい防潮堤が海岸線に沿って伸びている。砂浜を洗う穏やかな夏の海。雲間から覗く太陽はまだ弱々しい。右側には久之浜の町が広がっているのだが、緑地帯の樹木に遮られて見えない。

 東日本大震災の津波は堤防沿いの家々を破壊し、大火が堤防から町の大通りまでの広域を焼き尽くした。

 その後、震災復興土地区画整理事業が始まり、瓦礫を撤去した更地に盛土をして樹木を植え、防災緑地が造成された。

 岬下の河口から町はずれまで延々と続く緑の丘だ。海を隠し、町を守る高い城壁だ。

 緑地帯は堤防沿いの区画を埋めて造られている。

原発の漁業補償金で潤った地域の今は

 僕が子供だった頃、久之浜の人々は皆一様に貧しかった。その中でも漁師が多く住む堤防沿いの町は特に貧窮していた。粗末な港に浮かんでいるのは小型の底曳網漁船が数艘、ほとんどが2人か3人乗りの伝馬船だ。伝馬船を漕いで海藻や貝を採り、家族が町内で売りさばく。干物を作る小規模の水産加工場もあった。

台風の接近で、堤防に押し寄せる数メートルの高波。前日の夜、高さ5㍍の防波堤が30㍍にわたり壊されたため、消防団員たちが土のうを置いていた=1971年9 月12日正午ごろ、福島県いわき市久之浜町金ケ沢
 隣町の漁業組合のように遠洋漁業に出かける船舶も財力もない、町の沖合で漁をする零細な漁師の集まりだった。

 その中にも、船主と雇われる漁師がいる。大きな入母屋造りの家は船主、小さな家は舟子か家内漁業従事者と決まっていた。しかも、バラック同然の家が肩を寄せ合うように堤防下に固まっていた。嵐の度に大波が堤防に打ち付ける。その飛沫が堤防を越えて降りかかり、トタン屋根を鳴らした。

 だが、1971年3月に東京電力福島第1原子力発電所が稼働すると、貧窮は次第に改善されていった。生活を潤したのは原発の漁業補償金だった。

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