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それでも日本人はあの世を信じる──死者を通じて死と向き合う信仰

[12]リアリティをなくしつつある浄土という世界

薄井秀夫 (株)寺院デザイン代表取締役

 人は死んだらどこに行くのか?

 このテーマについては、以前この論座の「死後の世界をめぐる仏教と人々の“ズレ”~人は死んだらどこへ行くのか?」で書かせていただいた。そこでは、仏教が考える「あの世」観と人々が考える「あの世」観に大きなズレがあることについて言及した。本稿では、再び日本人とあの世について取り上げ、日本人の死生観について考えたい。

 常識的に考えれば、人は死んだら終わりである。人が死んだら霊魂となるとか、どこか別の世界に行くといった話は、現代の科学的な常識においては、なかなか受け入れがたい主張である。

 ところが現代においてもほとんどの宗教は、死後の世界を説いている。

 仏教の場合、もともとは輪廻転生(りんねてんしょう)を説いていた。

 人が死んだら、別の命に転生し、それが何度でも繰り返されるのが輪廻転生である。そして仏教は、こうして生と死を繰り返すことを「苦」であると考え、ここから解脱することを究極の目標とし、そのための方法として様々な教えを説いているのである。

 ところが日本の仏教では、あまり輪廻転生という考えを説かない。日本の仏教は浄土教の影響が強く、死んだら何回でも生まれ変わるという考えではなく、死んだら「浄土」という場所に行くという考えが主流になっている。

「極楽をこの世で拝める」とうたう善光寺東海別院暗闇の先に「極楽浄土」が浮かびあがる=2018年6月14日、愛知県稲沢市祖父江町拡大「極楽をこの世で拝める」とうたう愛知県の善光寺東海別院。暗闇の先に「極楽浄土」が浮かびあがる=愛知県稲沢市祖父江町

 ただし浄土には色々あって、日本の仏教における最大派閥である浄土系の宗派は、人は死んだら極楽浄土に行くと説いている。日蓮系では霊山(りょうぜん)浄土に行くと説き、真言系では密厳(みつごん)浄土に行くと説くことが多い。

 宗派によって、行き先が少しずつ異なるのだが、人は死んだら浄土に行くという基本路線は同じである。

 そしてどの浄土も、それがどんな世界なのかが、お経の中に事細かに描かれている。

 例えば阿弥陀経というお経には極楽浄土のことが具体的に描かれている。果てが無いほど広大な場所で、金銀宝珠をちりばめた建物や蓮池があり、暑からず寒からず、一切の苦が無い、などといった描写である。

 極楽浄土は別名、西方(さいほう)浄土とも言われている。西の遙か彼方に、極楽浄土があると信じられていたからだ。当時の人達は、このこともリアリティを持って信じていた。日本から海を越えて、ずっと西の方に、極楽浄土があるのだと。

 日本に仏教が広まった平安・鎌倉・室町時代においては、こうした浄土は人々にとってリアリティのある世界だった。自分たちが死んだら、安らかな世界に行くことができるという思想は、仏教の魅力のひとつでもあった。

 ところが現代人は、西の方に行っても極楽浄土は無いことを知っている。まして、金銀宝珠をちりばめた建物のあるような、きらびやかで果ての無い場所があると、そのままで信じることは難しい。科学が進んだ現代では、もはや浄土はリアリティをもった場所ではないのである。

 こうした状況は、浄土を説く日本仏教にとっては深刻な問題である。宗派ではそれぞれ、どう浄土を説くかについて苦慮していて、中には浄土は心の中に存在していると再定義している宗派もあるようだ。

 人が死んだらどこへ行く、という問題は、日本仏教の活動の中心である葬送にも大きな影響が出てくる。葬儀というのは亡くなった人をあの世に送る儀式であるし、年忌法要はあの世の故人が安らかであることを祈る儀式である。あの世が存在していないと、日本仏教の存在意義も危ういのである。

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筆者

薄井秀夫

薄井秀夫(うすい・ひでお) (株)寺院デザイン代表取締役

1966年生まれ。東北大学文学部卒業(宗教学専攻)。中外日報社、鎌倉新書を経て、2007年、寺の運営コンサルティング会社「寺院デザイン」を設立。著書に『葬祭業界で働く』(共著、ぺりかん社)、 『10年後のお寺をデザインする――寺院仏教のススメ』(鎌倉新書)、『人の集まるお寺のつくり方――檀家の帰属意識をどう高めるか、新しい人々をどう惹きつけるか』(鎌倉新書)など。noteにてマガジン「葬式仏教の研究」を連載中。

※プロフィールは、論座に執筆した当時のものです