「不要不急」と言われたアートがウイズコロナ時代の地域の未来を拓く
奥能登国際芸術祭・北アルプス国際芸術祭 二つの地域芸術祭の開催から見えてくるもの
前田礼 市原湖畔美術館館長代理/アートフロントギャラリー

北アルプス国際芸術祭の磯辺行久の作品「不確かな風向」。エコロジカル・プランニングの手法で、ロックフィルダムの建設による土地の改変が自然環境に与えた変化を検証し、地面から掘り起こした石を使って150×300メートルの地上絵で七倉ダムの風の流れをダイナミックに視覚化する
5回目となった緊急事態宣言が解除され、県境を越えた移動規制も解除され、人々が動き出した。昨年来、延期となっていた地域芸術祭もようやく全面的に開幕できることとなった。今年5月、「論座」に「コロナに直面する地域の芸術祭」と題した一文を寄稿し、地域、アーティストのしぶとく、したたかな活動について報告したが、今回は「その後」について書いてみたい。
「さいはて」の地での芸術祭
能登半島の突端に位置する珠洲市。かつては大陸からの人やモノの玄関口であり、北海道、日本海、瀬戸内海をつないで物資を運ぶ北前舟の寄港地として栄えたが、明治以降、国の政策が陸上交通重視に変わり、海上交通が衰退。さらに、日本海を挟んだ大陸との関係が緊張するなかで、珠洲は国の中央から最も遠い「さいはて」となった。1954年の合併で現在の珠洲市が生まれた時には38000人だった人口は14000人にまで減少。今や本州で最も人口が少ない市である。
1975年に原発誘致計画が浮上して2003年に完全凍結になるまで30年近く、市は推進派と反対派に分かれて激しく揺れた。原発誘致決定と共に敷設された「のと鉄道」は、凍結の翌々年に廃線となった。しかし珠洲市は、地域の自然・食・文化に注目し、その潜在力を活かす道を選んだ。
2008年に揚浜式製塩の技術が国の重要無形民俗文化財の指定され、2009年には田の神を祀る行事「あえのこと」がユネスコの無形文化遺産に登録、2011年には国連の世界農業遺産に「能登の里山里海」が認定されたが、思うように発信できない。その魅力をもっと広く遠く伝えるために、選ばれたのがアートだった。
商工会議所と行政が芸術祭を珠洲で開催するために、越後妻有の大地の芸術祭、瀬戸内国際芸術祭の総合ディレクターをつとめる北川フラムを訪ねたのは、2012年のことだった。
2017年、第1回の「奥能登国際芸術祭」は、「最涯(さいはて)の芸術祭、美術の最先端」をキャッチフレーズに、きりこ祭りがほぼ毎日、珠洲市のどこかで開催されている9月から10月にかけて50日間にわたって開催され、予想を超える多くの人々が訪問。アートを通して、日本列島の原風景が残るさいはての地の生活文化に魅了された。そして終了直後から、第2回に向けての準備が進められた。